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2011年 08月 31日 ( 1 )

高橋和巳、生誕80年

ブログに寄せられるコメントはブロガーの楽しみの一つ。8月28日、「あや」さんという方から初めてのコメントをいただいた。対象記事は「邪宗門忌(高橋和巳三十八回忌)」(2009年5月3日付)」。以下あやさんのコメントを全文引用。
ふと思い付いて,検索してたどり着きました。
二度と,辿り着けないかも。。。
邪宗門,好きです。
高橋和巳さんの著作も,ほぼ全制覇してます。
おそらく,コメントを寄せる中では最年少でしょうか,38歳です。
私の卒業した中学では,先輩から後輩へという形で「その人が好みそうな和巳さんの小説を与え,ファンとして引きずり込む」「引きずり込まれた人間は,卒業までに次世代を見つけて,ファンとして育成すること」というのが不文律のように存在していて,知っている限り,数世代辿れます。
その伝統も私のところで,絶えてしまいました。

僕が高橋を知ったのは高校時代で本格的に読み始めたのは大学時代だから、時代が違うとはいえ、あやさんたちの中学校は実に早熟。「その伝統も私のところで,絶えてしまいました。」とのことですが、高橋和巳の作品が若い世代にも読み継がれていることを知り、とても嬉しかった。Amazonで調べると『邪宗門』は現在新本では入手困難みたい。残念。

今日8月31日は日本では稀有な思想小説の書き手・高橋和巳(たかはし・かずみ1931-71)の誕生日である。彼が生きていれば80歳ということになる。先日亡くなった小松左京の若い頃の話に高橋も出ていたが、二人は同年生れで京都大学で同窓(小松が1学年上?)。他には大岡信・谷川俊太郎が高橋と同年生れ。高橋は39歳で夭折しているので、今年は没後40年でもある。前記事の松村謙三と同じ年に亡くなっている。

2年4か月ほど前(僕は62歳)の記事になるが、高橋和巳の誕生日に以下の記事を再録しておく。こういう記事を書いたことを思い出させてくださった「あや」さんに感謝。

再録:「邪宗門忌(高橋和巳三十八回忌)」(2009年5月3日付)
高橋和巳が、60とは言わないがせめて50歳まで生きていたらなどと考える誘惑は封印すべきだろう。人は死ぬべくして死ぬのである。昭和6(1931)年8月31日、大阪市浪速区貝殻町に生まれた高橋は、昭和46(1971)年5月3日午後10時55分永眠。葬儀は5月9日、青山葬儀所にて営まれた。葬儀委員長は埴谷雄高。
和子(たかこ)の「臨床日記」(『文芸』高橋和巳追悼特集号に所収)から引用する。原文縦書き、用字用語はママ。
(前略)八時ごろ。湯で顔と手をふいてやる。右の眼尻に一滴の涙がこぼれていた。泣いてるの?と言って、私はそれを指先で拭きとった。坂本氏こられる。(略)埴谷氏が高橋君と耳許で大きく呼ばれた時だけ、主人は両眼をひらいた。(略)母が和巳、和巳と泣きさけぶと、右眼だけが少し反応した。私は一度も呼ばなかった。(略)深夜ちかくになって、ふいに呼吸が間伸びしてきて、息が薄くなったかと思うと、息絶えた。十時五十五分。病名を知らず、不可能な時間を夢みたまま、主人は命を終えたのであろう。やすらかな顔であった。
念のため付言すると、「坂本氏」は坂本一亀(坂本龍一の父)、「埴谷氏」は埴谷雄高。和子は京都大学で和巳と同窓(和巳は中文、和子は仏文)で、和巳没後に形而上学的小説を何篇か発表し今はフランスで修道尼になっているとか。

僕が「高橋和巳」なる名前を知ったのは高校生時代だと思う。図書館にあった岩波の吉川幸次郎・小川環樹監修「中国詩人選集」の『李商隠』。当時の僕は李賀がランボーで、李商隠はヴェルレエヌと勝手に決め付けていたので^^「ふ~ん、高橋和巳って少壮の学者がおるんだなぁ」くらいにしか思わなかった。今確かめてみると『李商隠』は1958年刊行、刊行当時高橋和巳は27歳(京都大学大学院博士課程在学中。翌年修了)である。いくら吉川の推挙があったとはいえ、院生が岩波から本を出すのですから、今にして思えばすごいことです。
やがて僕は大学進学のため1965年3月に上京。「朝日ジャーナル」に連載中の『邪宗門』(1965年1月~66年5月)の熱心な読者になった。そして、読んだ順は忘れたが『捨子物語』『悲の器』『憂欝なる党派』『日本の悪霊』『我が心は石にあらず』『堕落』『散華』『白く塗りたる墓』『黄昏の橋』といった小説群は刊行とほぼ同時に読み(ずいぶん多作家だが、10年足らずの作家活動である)、『文学の責任』『孤立無援の思想』『新しき長城』『孤立の憂愁の中で』『変革の思想を問う』『わが解体』『人間にとって』『自立の思想』などのエッセイ集もほぼ全部読んだ。
僕は生前の高橋に一度だけ会っている。あれは22歳の秋だったろうか。鬱屈した気持ちで帰省していた時のこと。今はない「富山市公会堂」での講演。苦悩教教祖とも揶揄された彼だが、それでも何度か笑いを呼ぶ発言もあったように思う。熱気の退潮した時代だったのだろう、聴衆は極めて少なかった。
高橋を矮小化するようで恐縮だが、僕が高橋に学んだことの一つは「権威・権力・強者・金持ちに対峙しうる思想を構築すること」である。今の自分の立場上、権威の威を借りてエバってみせることも、権力にすり寄らなければならないことも、強者におべんちゃらをこかなければならないことも、金持ちのヨイショをしなけらばならないことも、組織の一員として生きている以上何度もあるが、それでも一個人としての矜持は持ち続けたいと思う。
「健康で文化的な最低限度の生活」さえ営めない人が数多いるこの国でこんなことを書くと、「甘っちょろい!」「青臭い!」と言われるかもしれぬが、あちこち迷走した末の62歳の今の自分は、けっきょく、若き日の理想=「自由・平等・博愛」の実現を目指しているのかもしれない。

吉川や桑原武夫や白川静に愛され期待された学の水準(高橋が辻邦生に言ったそうだ、「京都ではな、学者は泣きながら勉強するんや」と)、小田実や小松左京らと競い合うように発表した創作群(小田実は弔辞「とむらいのことば」で「すべての気持をこめて、高橋和巳よ、ホナ、サイナラ。」と述べる)、孤立無援を恐れず対自化された思想の高み・思索の深み(「スターリンを疑い、レーニンを疑うことからやがてはマルクスをも疑うに到るだろう。仏法のためには釈迦をも斬る精神のほかに、しかし期待しうる何があるだろうか。」)、友人知人はもとより埴谷や寺田透や武田泰淳らに愛された人柄。内村剛介の言い方を借りれば、39歳で亡くなった高橋和巳はまさに「生き急いだ」人生ということになるのでしょうね。
今はもう高橋和巳は「過去の人」になってしまっているのだろうが、その運動体組織論も含めて、まだまだ読み継がれ語り継がれていく価値があるのではないだろうか。

若き日の夢往還す 邪宗門忌
語り合う友とてもなく 邪宗門忌
邪宗門忌 志の之くところ 未だ見ず
(「邪宗門忌」は一般通用の語ではなく、私の勝手な造語です。陳謝)
by tiaokumura | 2011-08-31 10:11 | 思い出の本たち | Comments(2)