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2009年 03月 25日 ( 1 )

あれから6年です

「もう」なのか「まだ」なのか2003年3月25日から6年目。日曜日に7回忌を済ませた。
2000年夏の夫婦二人っきりでのパリ旅行、2002年11月から最期までの約100回の夜を緩和ケア病棟の個室のサイドベッドで過ごしたこと-この2つを除けば女房孝行のできない男だった。

承元の法難に始まり吉崎御坊・一向一揆など、北陸一帯は約800年の浄土真宗の法統を継ぐ地と言えるであろう。富山は「真宗王国」と称せられることが多い。人は死んだら無に帰するという信条の私ではあるが、真宗門徒の末席に位置させていただいている。
「門前の小僧」には遥かに及ばない身だが、それでも物心ついたころから
きみょうむりょうじゅにょらいなむふかしぎこう
とか
しょうにんいちりゅうのごかんげのおもむきはしんじんをもってほんとせられそうろう
とか
いっさいせけんてんにんあしゅらとうもんぶつしょせつ
とか
にょらいだいひのおんどくはみをこにしてもしゃすべし
とか
がんにしくどくびょうどうせいっさいおうじょうあみだきょう
など「意味」もわからぬままに「音」として慣れ親しんできた(上記のかな部分は記憶にある音を頼りに私が復元した。従って正確ではないこと、ご寛恕のほどを)。富山生まれ・富山育ちの方には私と似たような宗教環境にある方が多いでしょうね。
私の心のどこかにとりわけ強く残り続けているのが、「われやさきひとやさき」「あしたにはこうがんありてゆうべにははっこつとなれる」が出てくる蓮如上人(1415-99)「白骨の御文章」。小学校低学年頃まではそのリズム・イントネーション・プロミネンスの妙に感応し、やがてはそこで謳われている「無常観」にある種の恐さを感じたものだが、「他人の死」を何度か経験して今この年になってみると、自分には死を迎える心の準備が必要なのだと思う。
このようなブログに載せるのは憚るべきなのかもしれないが、祥月命日にあたり掲出させていただく。
なお、当ブログには20代・10代・日本語非母語話者の方もアクセスされるので、読み仮名は多目に付させていただきました(読み仮名は現代仮名遣いにした)。

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。さればいまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。われや先(さき)、人や先(さき)、今日(きょう)ともしらず、明日(あす)ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑ(すえ)の露(つゆ)よりもしげしといへり。
されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李(とうり)のよそほひを失ひぬるときは、六親(ろくしん)眷属(けんぞく)あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐(かい)あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半(よわ)の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少(ろうしょう)不定(ふじょう)のさかひなれば、たれの人もはやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)をふかくたのみまゐらせて(まいらせて)、念仏(ねんぶつ)申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
by tiaokumura | 2009-03-25 20:00 | 追悼 | Comments(0)