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2007年 10月 23日 ( 1 )

城野義雄先生のご冥福をお祈り申し上げます

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小学校4年生の夏休みの終わり頃だったと記憶しているが、富山市内から郡部に引越しをした。同じ県内ではあるが、確か教科書も異なり話す言葉も若干異なっていた。転校生、時には揶揄されいじめられることもあるのだろうが、幸い僕はそんなことはなかった。級友に恵まれたこともあったのだろう。あの当時はダ・シルヴァ(ブラジル?)という三段跳び世界記録保持者がいて、小学校で三段跳びが流行ってた。僕は割とよく跳べたので、いつしかあだ名が「ダッシ(ュ)」になって級友に溶け込めていった。相撲も割と得意だった。
そんなこともよかったのだろうが、担任の城野義雄先生のおかげが大きい。城野先生は、今計算してみると当時30代前半ということになる。温和なご性格で一人ひとりの児童に思いやりを持って接する先生だった。遥か50年以上昔のことなので、記憶違いもあるかもしれないが、例えば年に何回か学校から歩いて農場に行き、先生やみんなと楽しく遊んだ(本当は「校外学習」とかなのだろうけど^^)。「詩を書いてごらん」と言われて、ノートに家の時計についてなどの詩を書いた。あるいは、教科書にあったのだろうか、ある庄屋さんが高台にある家から海を見ていて、津波が村を襲うのを目にする。彼はとっさに「稲むら」に火を放ち、その燃え盛る火を見た村人が「庄屋さんの家が火事だ!」とみな一散に庄屋宅に駆けつける。そのおかげで村人たちは津波の難を逃れる。確かそんな話(後にそれは小泉八雲が採話したというようなことも聞いた)。それを読んでの感想文、僕はその書き出しを「五兵衛はえらいなぁ」とした。我ながら50年後も覚えている名文(書き出しだけだけど^^)。また、東海村の頃なので「原子力」について自由研究をした。城野先生のお薦めがあったのだろう、地元新聞社の「子ども一日記者」を経験したこともある。6年生のときには「児童会長」とかいうのもやった。中学生が小学校にやってきて僕たちをいじめたことがあった。その時、「自分は中学生になってもこういう連中みたいにならないぞ」と思った。6年の時学芸会で中国民話に題材をとった劇(ホーレンとかいう名の貧乏絵描きの話だったか?)の監督もやったことがある。城野先生は民主主義教育の情熱を燃やしておられたのだと思う。そんな先生のご指導の下で、僕たちは実に素晴らしい体験を積み重ねていたのだ。僕は先生がとても好きで、ある時期のこと「先生は僕の父と同一人物なのではないだろうか」という錯覚に陥ったことさえある。先生の弟さん(彰君)と中学で仲良くなったのも不思議な縁。

悲しかったことが1回。算数の時質問してて僕の意図が先生に伝わらなかった時。たぶん「10進法」と「12進法」のことを僕は聞きたかったのだと思うが、僕はうまく説明できなくて、それでもどかしく悲しかった。
先生に怒られた記憶が2回。1回は「ここは御国を何百里・・・」というのだったか「軍歌」を歌ってて叱られた。もう1回は最も記憶に残っているできごと。僕たちが隣のクラスの女先生のスカートをまくったことがあった。5人くらいでやった。城野先生は僕たちを黒板の前に立たせ、順にたたいていかれた。僕は自分がやったことが「恥ずべきこと」なので先生にそうされるのは当然だと思った。体罰の是非(圧倒的に否定的な意見が多いだろうが)について、僕は城野先生のように子供との信頼関係が成り立ってる場合は体罰も可だと思う。その「体罰」には後日談みたいのがある。昨年だったか中学の同期会があった。その時、僕と同じ城野先生のクラスだった女の子(ってももういい年ですが^^)が言うことには、あの時、城野先生は涙を流しながら僕たちをたたいておられたそうだ。僕はあの時全くそのことに気づいていなかった・・・。

教材教具も乏しい時代、あるいは朝鮮戦争を境に右旋回する日本、教育界では勤評闘争など、自分が大人になって小学校教諭・城野先生のおかれた教育環境の厳しさも知った。僕が城野先生に教えていただいたのは2年7ヶ月くらいなのだが、多くのことを先生から学んだと思う。他人(特に弱者)に対する思いやり、権力にすりよらない・権威を盲信しない、絶望しそうな時もユーモアを忘れない、困難に立ち向かう勇気、勉学の基礎及び勉強を楽しむ心、他人をうらやんだりねたんだりせず自分を高める努力をする、天狗にならない・うぬぼれないなど、あの当時はそれと気づかなかった多くのこと(実現できてないことがほとんどだが)。僕は「師」に恵まれた人生で、これらの全てを城野先生から学んだわけではないのだろうが、小学生時代に城野義雄先生に出会えたことは、僕の人生の大きな財産となっていると、今にしてしみじみ思う。
そんな恩師ではあるが、ナマイキな男なんでしょうねボクは(恥)、小学校卒業後は音信不通に。富山にUターンして何年か後年賀状をお出ししたらお返事をいただけた。それから毎年年賀状を出し、いつかは大山町牧野の先生のご自宅も訪問したく思っていた。

21日の北日本新聞「追想ありし日」を見て驚いた。先生は今年4月10日、84歳でご逝去されていたのだ。同記事には僕の知らない城野先生のことも詳しく載っている。先生は岐阜県神岡町のお生まれ。師範学校卒業後教員に。「戦時中は海軍の戦艦日向に配属・・・昭和19年、フィリピンに向かう途中、米軍の攻撃を受けて沈没する戦艦や駆逐艦の様子を目の当たりにした。」(同記事引用)。現人神が人間天皇に、鬼畜米英がギブ・ミー・チョコにと、価値観が大きく変動した時代に教壇に立たれた城野先生のご苦労は、並大抵ではなかったことだろう。見出しには「授業法の研究に力」「過疎地の教育に情熱を傾けた」の文字。

城野先生のような教育者に薫陶を受けながら、ボクはと言えば「民主主義教育の鬼子」、先生の足元にも及ばないまま馬齢を重ねつつある。

城野義雄先生
先生にお会いでき、先生に教えていただけたこと、厚く感謝申し上げます。
今はただ、先生のご冥福をお祈り申し上げております。
合掌

by tiaokumura | 2007-10-23 18:57 | 追悼 | Comments(4)