山田孝雄博士、50回忌

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本日11月20日は、富山が生んだ偉大な国語・国文学者山田孝雄(やまだ・よしお)博士(1875-1958)の祥月命日である。ここに博士の遺徳を偲び、ささやかながら一文を草するものである。
左の写真は、富山市立図書館山田孝雄文庫入口脇に掲げられている。
本稿は、
加藤重広「日本語文法の諸問題と近代文法理論史」(富山大学2008年度前期・言語学特殊講義レジュメ)2008年9月
神島達郎「山田先生と日本語」(山田孝雄文庫公開講座第3回レジュメ)2008年11月
富山市立図書館リーフレット「山田孝雄文庫」(作成年月不明)
によるところ大である。厚く感謝申し上げる。
なお用字表記は一部を除き現行のものに改めた。
略伝
-この項は、リーフレット「山田孝雄文庫」(富山市立図書館)所収の「山田孝雄博士 年譜」から抄出したものである。ただし一部書き改めたり付け加えた箇所もある。
明治8(1875)年8月20日、山田方雄・ヒデの二男として富山市総曲輪に生れる。明20年、富山県尋常中学(現在の富山高校)に入学するも、翌年家庭の事情により退学。明28年、ほとんど独学により尋常中学校国語科教員及び尋常師範学校国語科教員の免許を取得。以後、私立鳳鳴義塾(兵庫県・丹波篠山)、奈良県中学校五条分校、奈良県郡山中学、高知県立第一中学校などで教鞭をとり、その間、日本史科・倫理科・修身科の教員免許を取得する。
明治35(1902)年、『日本文法論上巻』を大阪宝文館より刊行、時に27歳。明39年春、東京に移住。翌年、森鷗外の推挙により文部省国語調査委員会補助委員を委嘱される。明41年『日本文法論全1冊』、同44年『平家物語につきての研究』前編、大正2(1913)年『奈良朝文法史』『平安朝文法史』を刊行。大4年、稲坂和子と結婚、山田は40歳・和子は20歳であった。大8年、私立国学研究所を起こし所長に就任。大11年、日本大学での講義を基にした『日本文法講義』『日本口語法講義』を刊行。大13年、日本大学文学部国語科主任。大14年、東北帝国大学法文学部講師となり、仙台に移住。昭和4(1929)年、「日本文法論」によって文学博士学位。東京帝国大学に論文を提出してから30年近く経ってようやくの学位であった。東京帝国大学に山田を理解しうる能力がなかった故のあまりに遅すぎる博士号授与である。
50代から60代にかけて、『万葉集講義』『仮名遣の歴史』『芭蕉俳諧研究』(阿部次郎・小宮豊隆らとの共著)『倭漢朗詠集』(岩波講座「文学」)『平家物語』『国体の本義』『源氏物語之音楽』『古事記序文講義』『日本文法学概論』『五十音図の歴史』などを刊行。昭14(1939)年、御講書始めの儀に「古事記を奉る表」を進講、時に山田64歳。昭15年、神宮皇学館大学長兼神宮皇学館館長として宇治山田に移住。昭19年、貴族院議員を命じられる。
昭和20(1945)年8月15日、敗戦。昭21年、公職追放(同26年解除)。昭24年、阿部次郎の配慮により再び仙台に移住し、阿部日本文化研究所顧問となる。昭28年、文化功労者。昭32年、久保田万太郎らとともに文化勲章。
昭和33(1958)年11月20日、宮城県仙台市において永眠。享年83歳。後に富山市呉羽山五百羅漢長慶寺に葬られた。
山田孝雄博士生涯の著作は全2万余ページにのぼる。

博士の主な著作
-この項は、神島(2008)に拠る。
『日本文法論・全』(明治41年9月 宝文館)
(橋本進吉は、「いやしくも日本の文法について論じ日本語の特質について知らうとするものは、必ず本書を逸する事は出来ないであらう」と絶賛した。)
『奈良朝文法史』(大正2年 宝文館)
『平安朝文法史』(大正2年 宝文館)
『日本文法講義』(大正11年 宝文館)
(時枝誠記はその随想集『国語学への道』の中で、若き日の思い出として、東京帝国大学・上田万年研究室での山田孝雄『日本文法講義』の輪読会について書いている。「私は、その時始めて書物を読むことの如何に厳しいものでなければならないかを知ったのである。」)
『日本口語法講義』(大正11年 宝文館)
『日本文法学概論』(昭和11年 宝文館)
『日本文法学要論』(昭和11年 角川書店)
(同郷の角川源義に請われ、角川書店から刊行)

博士の業績・後世への影響
-この項は、加藤(2008)に拠る。
意味を重視する心理主義的な「山田文法」は、彼以降の文法学界に大きな影響を与えた。
各時代の語法を自らの文法体系により記述的に整理し、文法史研究の基礎を築いた。
敬語法・訓読研究など、文法学の新領域を開拓した。
仮名遣い・五十音図・漢語などの研究を通じて、国語学研究の新方面を開いた。
『平家物語』その他の古典において、周到な注釈・研究を多数著した。
国史学では国粋主義を唱導した。
国語問題について、国粋主義的な論を展開した。
古文献の調査研究、古辞書・古典籍などの索引・複製刊行など、文献学の面でも尽力した。

博士の主な碑など
-この項は、富山市立図書館リーフレット「山田孝雄文庫」に拠る。
百千度くりかへしても 読む毎にこと新なり 古の典  孝雄
(富山市役所前庭。自筆の歌碑)
履新 創校八十年記念 卒業生 文学博士 山田孝雄
(愛宕小学校所蔵の横額。山田は明治16年に履新小学校、現在の愛宕小学校を卒業している)
天地の 今わかるるや 初日影  孝雄
(仙台市青葉区仙台城本丸跡。博士の終焉の地・仙台にある自筆の句碑)

山田孝雄博士・奥村私記
「は」と「が」
山田孝雄が文法研究に没頭するきっかけは、鳳鳴義塾で教えていた時の一人の生徒からの質問であった。その生徒は、「が」が主格を示すということはわかるが、「は」は主格にない場合にも用いるのではないかと、山田に問う。当時のことを山田は後年「中学生に導かれて」(『読書随想』所収)で以下のように書いている。
著者は其以前よりして文法専攻の志を有せり。当時はおこがましくも相応の知識有りを思へりき。当時某氏の文法書を以て教授に従事したりき。この文法書は即「は」を主語を示すものとせるなり。一日この条に及ぶや、一生煩悶して「は」は主語以外のものを示すことを以てす。余は懺悔す。当時の狼狽赤面如何計りぞや。沈思黙考して、徐に其の言の理あるをさとり、自ら其の生徒に陳謝したる事ありき。
博士論文
山田孝雄が東京帝国大学に学位請求論文を提出したのは1904年。文学博士の学位を取得したのは1929年。実に25年の間、山田の論文はたな晒しにされていたのである。東京帝大の頑迷であり、しかもその間にあって、自分たちは山田の『日本文法講義』の輪読会を開いていたのだから、権威者たちのご都合主義にはただただ呆れるばかりである。
博士と谷崎源氏との関係
谷崎源氏に対して、山田は国粋主義者故のヒール役をあてがわれることが多いが、それは誤解である。山田の源氏物語に関する膨大な蓄積が谷崎源氏に貢献したと言うべきであろう。最近谷崎源氏の成立過程(山田とのやり取り)に関する新資料が発見され、谷崎がいやいやながら口語訳を改変したのではないことが明らかになった。戦時下の谷崎は山田に感謝こそすれ、恨みには思っていなかったのではないだろうか。
森鷗外
鷗外のコーディネーターとして果たした役割はもっともっと顕彰されるべきであろう。中央には無名の存在であった山田を抜擢した鷗外の先見の明はすばらしい。石川啄木に対する鷗外の支援も高く評価されるべきである。啄木は泣きながら蟹と遊んでなどおらず、鷗外の労や恩に報いるためにも、もっと実労働に励み長生きすべきだったのである。「夭折」ってことになるのだろうけど。
名を冠せられる学者の出身地
「山田文法」の山田は富山市、「橋本文法」の橋本進吉は福井県敦賀市の出身である。中央(東京)での活動が彼らの才能を開花させたのではあろうが、かつては北陸地方が文化の底力を持っていたと言える。それは北陸に限らず、多くの「地方」に通底していたのかもしれない。
出版社との関係
当時の大手出版某社は山田の論考の上梓を断った。山田は終生、処女出版を引き受けてくれた大阪宝文館への恩義を忘れず、その著作の大部分を宝文館から刊行している。戦後、同郷の角川源義に請われて角川書店から出版した『日本文法学要論』は珍しい例である。宝文館への終生変わらぬ感謝、角川との関係に見られる愛郷心。これらも富山県人ならではなのかもしれない。
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by tiaokumura | 2008-11-20 06:33 | 富山 | Comments(0)


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