1969年9月、岩手県一関市生まれの18歳の少女・
阿部純子が鮮烈なデビューを飾る。同じ時に、歌がうまい女の子なら和田アキ子が、美少女ならカルメン・マキが、時代の象徴ならピーターが現れたが、阿部純子=
藤圭子は、歌のうまさも美少女性も時代の表象も全て兼ね備えていたところが、多くの他の同時代の歌手たちと異なっていた。彼女の歌う『
新宿の女』は、その詞(みずの稔・石坂まさを)には寺山修司『時には母のない子のように』にはない怨みが、そのメロディー(石坂まさを)にはいずみたく『いいじゃないの幸せならば』とは異なる暗さが込められていた。詞も曲も、そして何よりも歌手が、僕たち一般大衆の心の奥深くを撃った。
『新宿の女』に続く『
女のブルース』(1970年2月。作詞・石坂まさを、作曲・猪俣公章)で20週+17週という37週連続1位。そして、もし彼女の曲1曲となると僕はこれを選びたい『
圭子の夢は夜開く』の第3弾(1970年4月。作詞・石坂まさを、作曲・曽根幸明。B面は『東京流れ者』)も大ヒット、第4弾『
命預けます』(1970年10月。作詞・作曲・石坂まさを)も留まるところを知らぬ勢いでのヒット連発となった。あの頃は、どこでも藤圭子の歌が聞かれたものである。だが、「
演歌の星を背負った宿命の少女」(売り出し時のキャッチコピー)はやがて時代に合わなくなる。「歌は世に連れ」は確かだが、いかに藤圭子ワールドとはいえ、「世は歌に連れ」はせいぜい錯覚どまりなんでしょうね。藤圭子の紅白出場は1976年の5回目が最後だった。最後のシングルヒットは『
京都から博多まで』(1972年1月。作詞・阿久悠、作曲・猪俣公章)。
2013年8月22日は木曜日で、今日と同じように暑かった。僕は、富山国際学院での勤務中に、ネットのニュースサイトでその朝の藤圭子の自死を知った。その後の報道にスキャンダラスなものも少しはあったが、全体に彼女を温かく受け入れるような報道態度だったのは、イマドキのメディアでは珍しかったかもしれない。50代・60代の、藤圭子に青春を彩ってもらったスタッフが業界に残っていたからかもしれない。
宇多田ヒカルの母へのコメントもすばらしかった。
YouTubeは以前と比べて規制が厳しくなったんでしょうか。「これは」という藤圭子の歌唱がありません。『圭子の夢は夜開く』を貼りたかったのですが、残念ながらリンクなしの記事にします。今夜、夜空を見ながらアカペラで歌って藤圭子さんを偲びましょうか(照)。
今夜は天界では藤圭子ショーでしょう。
石坂まさをや
阿久悠といった「うるさ方」も彼女の歌に酔い痴れることでしょう。
当ブログの関連記事に1年前の「藤圭子さん、ご逝去」あり。
こちら。