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隠し文学館 花ざかりの森

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3月10日(日)午前10:10、車で家を出る。途中コンビニで讀賣・日経を買い、10:25頃に「隠し文学館 花ざかりの森」に着く。昨年は入院中で来られなかったので2年ぶりの訪問になる。
新資料でよみがえる 三島由紀夫 展Ⅳ-「三島、俳句への憧れを語る」-
車を駐車してたら玄関前に下駄ばきの杉田欣次館長。名乗り・ご挨拶など。当ブログのことも言われ照れくさし^^。
館内、ちょっとだけ観覧のあと2Fへ。10時半より記念講話
「館長、『三島の俳句観』を語る」
を聴く。
「三島と俳句」って視点、管見ながら初めて。杉田館長ならではの発想・組み合わせでしょうね。
講話前半は同館設立の経緯・これまでの講話の振り返り。講話のこれまでは、三島の年齢を5歳刻みで取り上げ、平成21年が三島25歳前後・亀井勝一郎との論争、22年が30歳前後・『潮騒』、23年が35歳・多忙な三島の1年、24年(僕は入院中で聴けなかった)が40歳・「見る三島」と「見られる三島」。「見る三島」は歌舞伎・新劇・能など「芸術生活」連載の『芸術断想』、「見られる三島」は高梨豊の写真集『怪獣の私生活』など。そして今回6年目が上記表題。以下、杉田館長の講話の奥村メモより。文責・奥村。
三島には101句ある。23歳ころまでは1年10句前後、24歳からは1年1句程度になり、28歳が最後の1句。
①三島と俳句との出会い
8歳。学習院の「小ざくら」への投句。「アキノヨニスゞムシナクヨリンリンリ」、「アキノカゼ木ノハガチルヨ山ノウヘ」。俳号は平岡青城(せいじょう)。「青城」は「青白(あおじろ)」から。当時の三島(平岡公威)って青白かったんでしょうね。
②15歳 散花や仏間の午後の青畳
③17歳 ナプキンの角するどしや冬薔薇
④28歳 何もかも言ひ尽くしてや暮れの酒
この句はドナルド・キーンらとの鉢の木会の忘年会での句。現存が確認できる三島俳句の最後の句。
⑤俳句から遠のいた三島だが、学習院の2年先輩の波多野爽波(はたの・そうは)主宰の「青」への寄稿を依頼される。
⑥『恥』(「青」昭和28年10月創刊号)
⑦『花鳥とは何ぞ』(「青」昭和30年5月号)
「耕や鳥さへ啼ぬ山陰に」(蕪村)を踏まえて書いている。
⑧昭和31年『詩を書く少年』
「おくがき」に、なぜ俳句から遠ざかったかについての記述あり。自分はにせものの詩人だという目覚めが小説家への道を選ばせた。
⑨『俳句と弧絶』(「青」昭和37年7月号)
三島の高浜虚子評価。虚子は、最後の俳人・最後の幸福な芸術家。
⑩他に『蝶の理論』
⑪昭和43年9月『花ざかりの森・憂国』
自作の解説。少年時代の短歌・俳句・詩はやがて戯曲に、同じく短篇小説は長編小説へと、「より構造的、より多弁、より忍耐を要する作業」へと移行していった。
杉田館長によると、三島の俳句への憧れは晩年まで続いたと思われるそうである。
波多野爽波はあの11.25の後、角川書店「俳句」昭和46年10月号に三島を追悼する「遥けき人ら」を書いている。波多野にとってあまりにも落胆・悲しみであったため、2年後輩の自死を追悼するのに1年かかったのでしょうね。展示されていましたが、名文。

アップした写真は「アキノヨニスゞムシナクヨリンリンリ」を杉田館長が発泡スチロールで造形したもの(写真左がそれ)。右は市谷での三島でしょうね。

今回の展示では、中村稔の呼びかけで東日本大震災に因み全国各地の文学館が「文学と天災地変」をテーマに展示とのことで、ここでは「『美しい星』と人類救済の試み」展が併展。『美しい星』はソ連核実験の翌年の作品だそうです。

お茶と和菓子をいただいて(照)辞去。帰り、「蔵前」でちゃんこ料理。一番少なそうな「えびすこ関脇」にしたが、運ばれてきたのを見てビックリ。今の自分には2人前くらいある。7割くらいをやっと食べた。
by tiaokumura | 2013-03-10 11:52 | 富山 | Comments(0)


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