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浅川マキさん、ご逝去

情念のこもった独特の歌唱スタイルで知られる歌手の浅川マキ(あさかわ・まき)さんが17日、死去した。67歳だった。(以下略)
朝日新聞2010年1月19日付)

僕は日本人女性シンガーのアルバム(ただし、ニューリリース)は、浅川マキ・りりィ・山崎ハコ・カルメン・マキ・山口百恵・椎名林檎の6人を持っている/いた。この選曲、「あんた、どんな趣味なんじゃ」と笑われるかもしれませんが(汗)、音楽は趣味の域にも達していないド素人なので、そして、選曲には自分なりに感受性に一貫性があるはずだから、他人に「ああだ、こうだ」と言われても揺らぐことはありません^^。
「和製○○」って言い方、かつて日本が欧米にキャッチアップしようとしていた時代に盛んに存在しました。いい意味で幼かったんでしょうね、その当時の日本は。浅川マキ(1942-2010。石川県美川町出身)はさしずめ「和製ビリー・ホリディ」「和製ジュリエッタ・グレコ」だったでしょうか。1970年前後に蠍座(新宿)かジァン・ジァン(渋谷)での彼女のライブに行ったような気もするが、勘違いかもしれぬ。
彼女の1枚目のアルバム「浅川マキの世界」(1970年リリース)は名盤。A面に『夜が明けたら』(作詞作曲・浅川)、『ふしあわせという名の猫』(作詞・寺山修司)、『淋しさには名前がない』(作詞作曲・浅川)、『ちっちゃな時から』(作詞・浅川)、『前科者のクリスマス』(作詞・寺山)、『赤い橋』(作詞・北山修)の6曲。B面には、『かもめ』(作詞・寺山)、『時には母のない子のように』(Sometimes I feel like a motherless childのカヴァー)、『雪が降る』(Adamoのカヴァー)、『愛さないの愛せないの』(作詞・寺山)など6曲。現時点でこのアルバムを振り返ってみると、松任谷由実も中島みゆきも椎名林檎も、浅川マキがいたからこそ/浅川マキが開拓してくれたからこそ、今日の地位を築き上げられたのではないか-そんな気にさせるアルバムである。

富山にUターンして約30年。浅川マキのことを語り合える友とてないまま日々をすごし、今朝、浅川マキの訃報を読んだ。
思想でもサブカルチャーでも、辺境や異端やアンダーグラウンドがいつしかメイン・ストリームになることが往々にしてあるが、浅川マキの場合、最後まで「異端」であったところが逆に彼女の「すごさ」を物語っているように思う。黒人霊歌・ジャズ・ブルースといったジャンルの歌い方もスピリッツも吸収し(例えば『朝日楼』はThe House of the Rising Sunのカヴァー)、「情念のこもった独特の歌唱スタイル」(朝日新聞訃報記事)を創りあげた浅川マキ。北陸生まれならではの顔立ち・まなざし、黒をベースとしたシックなファッションも印象深い。
YouTube、今回アクセスしてみて、浅川マキが何種類もアップされているのに驚いた。さすがYouTubeなんでしょうね。もっと驚いたこと-近藤等則・つのだひろ・向井滋春・後藤次利・本多俊之らをバックに従えた映像まであるのにはちょービックリ^^。濃すぎるコラボ・すごすぎるセッションですよね。この映像、そんなことはないでしょうが、もし京大西部講堂でのライブじゃったら超貴重でしょうね。YouTubeで「浅川マキ 近藤等則」で検索するとヒットします。
迷った末、以下には『ちっちゃな時から』をアップします。『夜が明けたら』も『かもめ』ももちろんいいのですが、『ちっちゃな~』には「さよなら」が出てくるので選びました。
浅川マキさん、ありがとうございました。さようなら。
あなたは「夜が明けたら一番早い汽車に乗って/いつかうわさに聞いたあの街へ/あの街へ行くのよ」(『夜が明けたら』)にあるように、「あの街」へ旅立たれたのでしょうね。
ここに謹んで浅川マキさんのご冥福をお祈り申し上げます。
合掌

by tiaokumura | 2010-01-19 20:55 | 追悼 | Comments(0)


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