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Pindo Mamosebetsuiさんに南アフリカ共和国について教わる

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第1土曜日午後はたまに富山市民国際交流協会(Toyama Cosmopolitan Association。ホームページはこちら)の「多言語文化交流クラス」に参加している。地方都市住民で世界のことに疎い僕には貴重なクラスです。前回受講したのは昨年11月のVenesa Tomlinさんの「ジャマイカ&パトゥア語」で(そのときの記事はこちら)、昨日5月7日(土)に受講したのは
第94回 南アフリカ共和国&セソト語
講師はPindo Mamosebetsuiさん。Pindoさんは高岡市にある高校のALT。ゴールデンウィーク中だからでしょうか、出席者が10人ほどと寂しかったが、その分僕もものおじせず^^講義中にあれこれ質問や感想も言えた。

南アフリカは公用語がEnglish、Afrikans、Sesotho、Sepedi、IsiXhosa、Isizulu、Setswana、Tshivenda、Xitsonga、IsiNdebeleの11。Pindoさんは国歌を歌ってくださったんですが、国歌の中にも5言語(順にIsiXhosa、Isizulu、Sesotho、Afrikans、English)が入っています。Afrikansってよく聞く言語名ですが、オランダ語・ドイツ語・ポルトガル語のまざった「ピジン」みたいな言語でしょうか。
PindoさんはJohannesburug近郊のSOWETO(South Western Township)のお生まれ。3言語使用者。ボクなんか日本語だけだから、まさに驚異的ですが、Pindoさんに言わせると別に当たり前ってことです。それからこれも日本人の僕には羨ましい限りですが、multi-culture femaleですね、Pindoさんは。
皆さんは南アフリカの中にレソトという独立国(王国)があるってご存知ですか。僕は知りませんでした。Pindoさんのお父さんはそのレソトのご出身です。

多言語文化交流クラス:第94回 南アフリカ共和国&セソト語」、南アの言語・動物・植生・貨幣・食べ物・観光などなど、Pindoさんのわかりやすい英語で1時間40分、GW中の楽しい午後のひと時が過ごせました。
南アフリカということでは前から聞きたかったことがある。本を読めば簡単にわかることでしょうが、マンデラさん(Nelson Rolihlahla Mandela1918-)のこと。最後の質問時間にPindoさんに尋ねました。
Thank you for your モナテ presentation. おくむらです. I’d like to know about ex-President Mandelaさん. 27-year-imprisonment are so many years. During his imprisonment, how did people in South Africa continue to contact with and guard Mandelaさん? And how could Mandelaさん endure the hardest time?
日本にも徳田球一(1894-1953)や宮本顕治(1908-2007)らの例がありますが、「革命」は起こらなかった。歴史の文脈が異なるといえばそれまでですが、彼我の差はどこにあったのだろうか。僕ならずとも聞きたいところじゃないでしょうか。
カタコト英語の質問でしたが(照)、質問の意図は通じたのでしょうね、Pindoさんは丁寧に答えてくださいました。質問の一つ目ではtoilet paper。マンデラさんは面会の時にトイレットペーパーを通信手段に使っていたそうです。獄中でトイレットペーパーにあれやこれや書きとめておいて、面会者との握手の際に看守に気づかれぬようにそれを渡す。もう一つの質問については詩Invictus。わずか1人がやっとというスペースの独房でマンデラさんはこの詩を座右の銘、心の支えとしていた。知らない詩なんで帰宅してWikipediaで調べたらInvictus、ヒットしました。William Ernest Henley(1849-1903)の1875年の詩。検索で他のサイトもヒットしてそれによるとラテン語のInvictusはunconqueredの意味だそうです。昨年公開された(知らなかった)ネルソン・マンデラ大統領の伝記映画(クリント・イーストウッド監督)のタイトルもInvictusだそうです。

講座が終了して、Pindoさんにブログをやっていることを話し、記事&写真の許可を得ました。アップした写真、バックは南アフリカ共和国(Republic of South Africa)国旗。赤は情熱・血、白は白人、緑は豊饒の大地、青は空・海、黄色は太陽・金、黒は黒人を意味するそうです。流線型になっているのはやがて全てが統一に向かうことから。

Ke a leboha、Pindo Mamosebetsuiさん!

(5月8日午後・追記)
ネットのPoemHunter.comInvictusが載っていました!以下に転載させていただきます。
Out of the night that covers me,
Black as the Pit from pole to pole,
I thank whatever gods may be
For my unconquerable soul.

In the fell clutch of circumstance
I have not winced nor cried aloud.
Under the bludgeonings of chance
My head is bloody, but unbowed.

Beyond this place of wrath and tears
Looms but the Horror of the shade,
And yet the menace of the years
Finds, and shall find, me unafraid.

It matters not how strait the gate,
How charged with punishments the scroll.
I am the master of my fate:
I am the captain of my soul.

# by tiaokumura | 2011-05-08 11:29 | 富山 | Comments(4)

団鬼六さん、ご逝去

団鬼六(だん・おにろく1931-2011)さんが亡くなられた。今日の朝刊、朝日も讀賣も日経も北日本も団の写真入り(北日本はカラー)の訃報記事。原発報道などで新聞は御用新聞と謗られる時代だが、各紙がこうして団鬼六の死亡を正当に取り扱っているのを見ると、なんだか少しホッとする。「新聞ジャーナリズム」、健在か。訃報記事、朝日が一番詳しいんですが、以下、讀賣web版(2011年5月6日20時42分)より転載する。
「花と蛇」などの官能小説で知られた作家の団鬼六(だん・おにろく、本名・黒岩幸彦=くろいわ・ゆきひこ)さんが6日午後2時6分、胸部食道がんのため東京都内の病院で死去した。79歳。告別式は未定。喪主は長男、黒岩秀行氏。
1931年、滋賀県彦根市生まれ。関西学院大卒。神奈川県内で中学教諭をする傍ら、団鬼六のペンネームで「花と蛇」を執筆。退職後、独特の性愛世界を描く作品群で人気を集めた。87年には横浜に5億円の自宅を建設、89年に断筆宣言をした。
しかし、バブル崩壊で自宅を売却。95年、賭け将棋指しの生涯を描く「真剣師 小池重明」で復活した。自伝的な「蛇のみちは」「美少年」をはじめ純文学的作品も発表した。


60代男性の平均的ヰタ・セクスアリス(VITA SEXUALIS)ってどんなんなんでしょうね。10歳頃にオナニーを覚え快楽と罪悪感の二律背反に悩み、中学か高校あたりで初デイト、20歳前後で初体験。巷でちょっとヤバい経験も少しして、20代後半で結婚。愛・結婚・SEXの幸福な擬似三位一体に安住。その内こどもが生まれセックスレスになり、40代の働き盛りには同窓会や職場で不倫もちょっと。50代、性の衰えを自覚しフーゾクにもちょっと心は動くが、「別に俺はこれでいいんだよ」などと達観する。定年退職後、カルチャー教室やパークゴルフや町内会やボランティアなどで異性に軽いトキメキを感じる。
↑データがあるわけじゃないけど^^、まぁこういったところでしょうか。
60代男性の多くが若い頃、団鬼六やピンク映画や奈良林祥のお世話になってるでしょうね。今みたいなSEX情報氾濫時代でも露骨な性表現時代でもなかったから、逆に想像力(妄想^^)も鍛えられた。

Wikipediaの「団鬼六」には団の年代別作品リストが載っている。
30代の『花と蛇』。SMを玄人衆から素人衆に知らしめるに多大な貢献を為した作品。中学英語教師・黒岩幸彦とSM小説家・団鬼六との両立、大変だったでしょうね。今ならモンスターペアレンツか教育委員会から強烈な抗議が来るところでしょうね。ある意味、大らかで「先生」がそれなりに尊敬されていた時代。僕、映画『花と蛇』、谷ナオミ版は見た記憶がありませんが、杉本彩の2部作は映画館で観ました。
40代・50代でのおびただしい数の作品群。当ブログご訪問者の中には、本屋で「奇譚クラブ」などをこっそり読んだ方もおありでしょうね。あるいは何冊かの本の中に紛れ込ませてレジに持っていった経験のある方もおられるかも^^。
僕自身は『花と蛇』も良かったが、断筆撤回後の『真剣師 小池重明』(伝説の将棋ギャンブラーの伝記)・『外道の群れ』(責め絵師・伊藤晴雨。竹久夢ニやお葉や富山出身の梅原北明も登場する)・『一期は夢よ、ただ狂え』(タイトルは閑吟集の「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え」より)が印象深い。

力道山・川上・裕次郎・長嶋・大鵬らが「昭和のヒーロー」であるのと同じで、団鬼六も(大っぴらに語れない時代が長かった作家だが)「昭和のヒーロー」と言える。巨星、落つ。昭和も遠くなりにけりである。バブル崩壊のおかげで平成の団鬼六の復活(「団鬼六」が市民権を得た)があったのだから、文学の神様はずいぶん粋な計らいをするものである。
90年代に金沢出身の官能小説家がいて、僕はずいぶん期待していたのだが長い間とんと作品発表がないようである。断筆または死亡されたのか。「官能小説」の世界も他のいくつかのジャンル同様、すっかり女性進出ですね。まぁそれはそれでいいのでしょうが、僕なんかはちょっと寂しい気もある。

団鬼六様、私たち野郎どものために長きにわたり数々の作品・話題を提供していただきありがとうございます。
今は安らかにお眠りください。
合掌
# by tiaokumura | 2011-05-07 20:13 | 追悼 | Comments(0)

コミュニティを支えるユースリーダーの育成WS@KEEP協会

西村勇也さん(Japan Dialog、ダイアログBar)からのML(2011年5月5日14:45発)で、今月17日~19日のワークショップの案内をいただきました。開催場所は山梨県清里にあるKEEP協会です。
西村さんは2011年1月22日(土)に富山市開ヶ丘にある玄徳館であった「ワールド・カフェはいかが?」のホストをなさってて、そこで初めてお会いしました。その時の様子は「ワールド・カフェ初体験」をご参照。
KEEP協会はその環境教育事業部を右にリンクしてあります。ポール・ラッシュ(Paul Rusch1897-1979)が第2次世界大戦後に山梨県清里高原に創設。KEEPはKiyosato Educational Experiment Projectの略。宮沢賢治が成し遂げ得なかったことを戦後日本でラッシュは実践した、と言うと言い過ぎでしょうか。今から35年ほど前、当時長野県白馬村八方にあった「ハイランドロッヂ」で僕が働いていた頃、あるシーズン、川嶋直君がバイトに来た。あの頃のハイランド・ロッヂは梁山泊のような世界で^^、お互いあだ名で呼び合い彼のニックネームは「クジラ」だった(ボクは「センセイ」だった^^)。クジラはその後清里のKEEP協会に就職。環境教育では第一人者でしょうね。1970年代後半でしょうか、僕、クジラを頼って清里の清泉寮に泊めてもらったことがあります。アンノン族で賑わっていたころかなあ。小海線って今も人気があるのかな。

西村さんのメールによれば「転載等大歓迎」とのことですので、以下に情報展開します(太字は奥村による)。日が迫っているので参加できる方は少ないかもしれませんが、今回の東北地方太平洋沖地震が生み出した新しい試み、西村さんがメールでお書きになっているように「先が見えない中で、何か1つ新しい光が生まれれば」いいですね。
(付記)
いくつかあった名称、「東日本大震災」に統一されたようですが、僕はこの名前に違和感が残ります。当ブログでは引き続き「東北地方太平洋沖地震」を使います。
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5/17~19 in山梨県清里「KEEP協会」
避難所から新しい未来を生み出す「コミュニティを支えるユースリーダーの育成」ワークショップ
申し込み→ http://bit.ly/kBxiLN
詳細→ http://positivelearning.seesaa.net/article/199171521.html
主催:財団法人KEEP協会、The Berkana Institute、JapanDialogプロジェクト
後援:NPO法人ETIC.、協力:日本財団Roadプロジェクト
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■日程 2011年5月17日(火)~19日(木)
■会場 山梨県清里KEEP協会清泉寮or同ユースキャンプ場http://www.keep.or.jp/ja/
■対象
・福島県郡山市にある避難所「ビッグパレット」を中心に活動する20~30代の人
・同避難所で避難生活を送る方
・地域のボランティア、NPO関係者、学生
・その他、福島県内における避難所生活送る方
・その他、福島における原発避難に関して支援活動などに取り組む全ての方

■参加費:無料(宿泊費、食費、など全て寄付による基金にて供出します)
※郡山ー会場までの大型バスを行きと帰りに準備しています。
(17日9時ごろ出発、20日18時ごろ現地着予定)
※都内など他地域から参加される方は現地までの交通費の負担をお願いいます。
■内容
福島県在住の若者を中心に50人の避難者・避難所の支援者・ 周囲住民を混合で招待し、国内外のファシリテーターと共に、山梨県清里にあるKEEP協会の宿泊施設にて「ユースコミュニティリーダーの育成ワークショップ」を 行います。
申し込み
下記、登録フォームより登録いただくか、KEEP協会山本(m.yamamoto@keep.or.jp)までメールか電話(0551-48-2626)でご連絡下さい。
申し込みフォーム:http://bit.ly/kBxiLN
■ファシリテーターのプロフィール
Bob Stilger(ボブ スティルガー)さん
国際NGO The Berkana Institute 
1970年代半ばからコミュニティ開発(コミュニティの変容)のための会社を設立し、50名のスタッフとともに従事。近年は、南アフリカ、ジンバブエ、インド、ブラジル等で社会を変化させるリーダーの育成とそのネットワーク構築にて活躍する。CIIS(カルフォルニア統合学研究所)において、人の変化と学習のシステムについて研究し、博士号を得る。「変化を導く(Leading Change)」の専門家。2005年より「リーダーシップとニューサイエンス」の著者、マーガレット・ウィートリーが設立したThe Berkana Instituteの共同代表を務める。
西村 勇也(にしむら ゆうや)さん
Japan Dialogプロジェクト代表/ダイアログBar 代表
大阪大学大学院にて人間科学(Human Science)の修士を取得。ファシリテーター&プロセスデザイナーして、組織変革、地域活性、ソーシャルイノベーションなどの分野で活動。2009年12月より、The Berkana Instituteと恊働し、多数のメンバーと共にArt of Hosting in Japanを始めとした国内プロジェクトを運営。アクションと変化を生み出す対話の場作りとコミュニティ構築に取り組む。「起こる未来を起こす」をテーマにNPO法人ミラツクを設立準備中。日本の新しい未来に向けたJapan Dialogに取り組む。
嘉村 賢州(かむら けんしゅう)さん
NPO場とつながりラボhome's vi 代表理事 京都市未来まちづくり100人委員会 事務局長
NPO法人「場とつながりラボhome's vi」では、コミュニティ運営や組織開発・プロジェクトマネジメントなど「場づくり」の研究開発・実践に取り組む。紹介制町家コミュニティ「西海岸」の試みは5年で1000人を超えるコミュニティとなり、NPO設立後は京都市より「京都市未来まちづくり100人委員会」の運営の受託。対話のプロセスを用いた組織開発、まちづくりに幅広く取り組む。
【問い合わせ】nishimura@dialog-bar.net(Japan Dialog 西村)
# by tiaokumura | 2011-05-06 06:39 | 東北地方太平洋沖地震 | Comments(0)

川上弘美『七夜物語』、朝日新聞連載完結

川上弘美(かわかみ・ひろみ1958-。『蛇を踏む』『溺レる』『センセイの鞄』『真鶴』など)の朝日新聞連載小説『七夜物語(ななよものがたり)』が今朝の第588回で完結した。絵は酒井駒子(さかい・こまこ1966-。須賀敦子『こうちゃん』など)。
2010年9月10日付、
さよは、いつも不思議に思っていた。
で始まり、2011年5月5日付、
こよなくなつかしいそのメロディーを、夢がさめてしまえば、さよはもう思い出すことができないけれど、その夢をみたあと、さよは必ず、深い幸福感に包まれるのである。
で「(完)」である。

1977年、欅野小学校4年生のさよは学校の図書館で『七夜物語』という不思議な本と出逢う。やがてさよは同じく『七夜物語』を読むクラスメートの仄田くんと、「世界のねじれ」を元に戻すために七つの夜を体験する。←とまぁこうまとめてしまったんじゃ、川上の「最近、長編をようやく書けるようになって、いよいよ書いてみようと思った」(連載開始前の朝日新聞2010年9月5日付)に対する冒涜になっちゃうでしょうね(大汗)。588回って400字詰め原稿用紙でどのくらいの分量になるのだろう。司馬遼太郎『坂の上の雲』は1300回くらいだったそうですから、その半分近い。
『七夜物語』では、現実世界のさよの離婚した母と父、仄田くんのおばあさん、定時制高校生カップル、野村君ら、七つの夜の世界のグリクエル、ウバ、チビエンピツ、トバら、多くの魅力あるキャラクターがさよと仄田くんの冒険を彩る。良い小説というものはたいがいそうだが、愛読者によっていろんな思い入れ・好き嫌い・深読みが出てくるところでしょうね。
「本の世界に入り込む」「世界の修復に本来は弱者が旅立つ」「冒険と友情を通じてこどもが成長する」「細かい描写でファンタジー世界を現出する」「昼と夜、モノと生命、光と影、夢と現実、潜在意識と行動-表層上では相反する2つの世界を最深部で一体化する」-世界文学では、C.S.ルイス(Clive Staples Lewis1898-1963)『ナルニア国ものがたりThe Chronicles of Narnia1950-56』やJ.R.R.トールキン(John Ronald Reuel Tolkien1892-1974)『指輪物語The Lord of the Rings』やミヒャエル・エンデ(Michael Ende1929-95)『はてしない物語Die unendliche Geschichte1979』に連なるか。「こどもの日」に完結したのは偶然なのかもしれないが、多くのこどもたちに夢中になって読んでほしい作品である。

朝日新聞では2010年2月23日に楊逸『獅子頭(シーズトオ)』も連載小説になり、こちらは先日完結しました。僕、しばらくの間、ほぼ毎朝新聞連載小説2本を読んでいました。
『獅子頭』はどうかわかりませんが、川上弘美『七夜物語』は近く単行本化されるでしょうね。上下2冊かな。単行本化にあたっての2つのお願い。①酒井駒子の挿絵も入れてほしい、②小学生にも読めるように難しい漢字には読みがなをつけてほしい。
# by tiaokumura | 2011-05-05 10:58 | | Comments(0)

学者の良心ということ

小西甚一(こにし・じんいち1915-2007)は昭和28(1953)年12月に弘文堂・アテネ新書の1冊として『日本文学史』を出し、その本に感銘を受けたドナルド・キーン(Donald Lawrence Keene1922-)は小西宅を訪問する。後日、キーンは小西に自著Japanese Literature(1953)を送り、小西はその本に強烈な印象を受ける。時が移り昭和40年代、小西は『日本文学史』を「本格的な文学史に出世させたい」と思う。一方キーンは「英文版2冊」の日本文学史を予定していた。
キーンの刊行を励ます日本ペンクラブ主催のパーティの席でのことである。以下少し長くなるがその時のことを小西甚一『日本文学史』(講談社学術文庫)から引用する。前段落の事情を背景にお読みください。

本当の日本文学史がアメリカ人の学者により初めて書かれる-という趣旨の頌辞も幾度か出てきた。キーンさんなら本当の日本文学史が書けることを、わたくしは寸分も疑わない。だが、いちおう日本文学の本職としてこの席に出ていながら、右のような発言を聞き捨てにしたのでは、同業者諸公に対し申し訳ないと感じたので、スピーチの番が廻ってきたとき、わたくしは、
「日本人に本当の日本文学史が書けないはずはありません。キーンさんのよりも良い文藝史を、わたくしが書きます。」
と言明した。それからキーンさんに向かって、
「あなたは挑戦を受ける義務がありますよ。」
と言ったところ、かれは微笑しながら、
「挑戦ということは、わたしをチャンピオンとして認めてくださったわけですから、光栄しごくに思います。」
と、きれいに受けて立った。そこで、いやおうなく『日本文藝史』幾冊かを書かされることになった次第。
(pp.238・239。原文縦書き)
小西甚一『日本文学史』(講談社学術文庫)の「解説」はドナルド・キーンが書いている。冒頭にキーンと『日本文学史』との「邂逅」が述べられた名解説です。

2011年4月26日、ドナルド・キーンコロンビア大学で最終講義。北日本新聞「海外 三面鏡」より2箇所引用。
最後の講義では、日本の古典芸能の能について約1時間、歴史や、自らの若いころの学習経験などを話した。
源氏でも近松でも芭蕉でも谷崎でも三島でもなく「能」なんですね。
キーンさんは冒頭、参加した大学院生らに「愛する日本に移り、余生を過ごす。(東日本大震災や福島原発事故の発生で)多くの外国人が日本を離れる中、私の決断に驚いた人もいたが、『勇気をもらった』と言ってくれる人もいた。そうだといいなと思う」と心境を語った。

讀賣新聞web版で「ドナルド・キーン」を検索したら以下の記事がヒットした(webへのアップ日時は略す)。
4月16日付 ドナルド・キーン氏が日本国籍取得、永住へ
4月24日付 「日本国民と共に行動を」帰化決意のキーンさん
4月28日付 ドナルド・キーン氏、コロンビア大学で最終講義
4月28日付 編集手帳
5月3日付 編集手帳
僕は自宅では朝日新聞を取ってるのだが、朝日はこれほど取り上げているだろうか。と言うか、今回のドナルド・キーン最終講義、見逃してるだけなんでしょうが、1本も目にした記憶がない。
讀賣ニューヨーク発の記事の記者署名を見てびっくり! 柳沢享之記者。柳沢さんの富山支社時代に僕、取材を受けてます。当時讀賣新聞富山版に「セカンドライフ」というシリーズがあって僕もその一人で取り上げられた(照)。僕は当時富山大学4年生(61歳?)だったか。確か取材のきっかけは、柳沢さんがこのブログを読まれて僕に興味を持たれたのだったか。その柳沢さん、今はニューヨークが赴任先なんですね。今後一層のご活躍を希望したい。それにしても自分、ドナルド・キーンさんを取材した新聞記者の取材をそれに遡ること数年前に受けてるんですから、実に名誉というか光栄っちゅうもんです(嘘爆)。

ドナルド・キーンさんは東京都内に居を構えられるそうです。学問上の「戦友」、碩学・小西甚一は今は故人だが、キーンさんが日本に永住されての執筆・講演など、ますますのご健勝を切に祈りたい。講演で謦咳に接する機会もありそうですね。楽しみです。
キーンさんが永住の地に選ばれた日本-私は、その日本国の民衆の一人であることを誇りに思い喜びたい。
ドナルド・キーンさんの日本永住のご決断に、日本国民の一人として「ありがとうございます」と申し上げたい。

僕は東京教育大学生時代に小西甚一の講義をいくつか取っている。頭も悪く熱心な学生でもなかったのでほとんど学恩を受けることはなく終わった(恥)。
僕は巡り合わせで大学3つで日本語授業を担当したことはあるが、どうも大学というところは敷居が高くあまり近寄りたくない場所である。大学教官と接する機会もたまにあるが、まぁあまり友だちになりたくない人種(例外もありますが)である。敬して和さず、ってとこだろうか。まあ、そんな大学観も教官観もボクの偏見なのだが。アカデミックってどうも苦手です。サブカル男なんでしょうね、自分って(照)。
僕(たち)の若い頃からの学者と言えば、小西甚一、ドナルド・キーン、白川静、小松茂美、吉川幸次郎、桑原武夫、梅棹忠夫、梅原猛、坂田昌一、高木仁三郎、彌永昌吉、家永三郎、色川大吉、大野晋、寿岳章子、猿橋勝子、ダグラス・ラミスら。そのアカデミック世界での位置は中央だったり辺境だったりだろうが僕にはわからないし、学者としての業績評価も正直よくわからない。ただこういった尊敬できる学者のことを思うと「学者の良心」という言葉を思い浮かべる。
ドナルド・キーンさんの日本永住も、そんな「学者の良心」の表れなのでしょうね。

(5月3日夜・追記)
NewYork Timesのweb版にDonald Keene Retires From Columbia and Will Move To Japan(April 26, 2011, 6:19pm)がありました。以下一部引用させていただきます。
The professor, who is 88, told his students that he planned to move permanently to Japan this summer where he will seek citizenship. He noted that this might seem unusual, given last month’s devastating earthquake and tsunami.
“This is a time when many foreigners are leaving Japan,” he said, adding that people have asked him “why I should be choosing this moment to spend the rest of my life in Japan.”
He said later that he decided to move there — “to voluntarily and gladly join the people in time of disaster” — because, “I have more friends there than I have here, and most of my awards have come there.”
He said he wanted to show his appreciation to the Japanese people, and that, “I could think of no other way than to say I’d be with them” despite the disastrous events.
# by tiaokumura | 2011-05-03 14:08 | このブログのこと | Comments(4)