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横尾忠則ポスター展THE BEST450@富山県立近代美術館

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(10月30日午後・記)
昨日10月29日(土)はけっこう忙しい日だった。
新しい仕事の打ち合わせで午前中は黒部市へ。アポは10時に取ってあり、初めての訪問先なので早目に余裕を持って家を8時に出た。ところが黒部に向かう8号線、順調すぎるっていうか、9時前には目的地に着いてしまった(激爆)。以前聞いたことがあるが、富山県はコンパクトな県で県内のどこからでも県庁所在地の富山市に車で1時間以内で行けるそうな。なるほど。長野県や岩手県と比べたら富山県はサイズがちょうど良い県なんでしょうね。
早く着きすぎたので、生地駅まで行ってみた。20年ほど前、YKKに日本語を教えに行ってた。その時はJR利用で下車駅は生地。記憶によれば駅の前においしい水飲み場があったはず。で、今もありました。駅員の方に聞くと「おいしいかどうかわかりませんよ」ってなつれない返事^^。もっと誇りに思えばいいのにね。黒部川扇状地湧水群は環境省?の名水にも選ばれてるはず。生地駅の清水、500mlのペットボトルに汲む。
10時前、富山国際学院スタッフの一人と合流。その後クライアントと打ち合わせなど。12時近く無事終了。
帰り、黒部ポークを食べようと思ったが8号線沿いには見つからない。とんかつの店に入ってとんかつ+エビフライの定食を食べた。ただ、癌患者にはやっぱ量が多すぎる。とんかつ2つとエビフライ2尾はなんとか食べたが、十穀米・ミニうどん・キャベツなどはほとんど残した。食べ物をこんなに粗末にしてたらどこかで罰が当たるでしょうね。
この日の午後は横尾忠則展&講演会を予定。午前はビジネスだったので僕はスーツを着てて、当初はいったん帰宅して着替えてからと思ってたのだが、時間がない。1時前に8号線を降りて、自宅には向かわず富山県立近代美術館へ。

1時半頃、近代美術館に入る。
横尾忠則ポスター展 THE BEST 450(YOKOO)
同展公式サイトより以下引用。
現代日本を代表するアーティストの横尾忠則(1936年兵庫県西脇市生まれ)は、絵画、ポスター、映画、文学と様々な芸術活動を展開しています。中でも半世紀以上にわたり、一貫して制作し続けているポスターの仕事は、作家の核となるものといえるでしょう。昨年、作家の高校時代から今日まで制作された全ポスター約900点が大阪の国立国際美術館に収蔵され、「横尾忠則全ポスター」展が開催されました。本展では、この貴重なコレクションの中から、これまでほとんど公開されていない初期の作品、長期にわたり展開されてきたシリーズポスターを含め、精選した横尾ポスターの代表作450点を一堂に紹介します。

講演が2時からなので展覧会を観るのは後回しにして講演会場に入る。もう満席で立ち見を覚悟してたら、後に2列椅子を継ぎ足してくれたので座れた。末期がん患者(照)としては立ち見はきつい。係員のアナウンスで講演ではなく副館長との対談とのこと。ちょっと嫌な予感。案の定、聞き手が下手で(横尾が意地悪なとこもあったのだろうが)、なんとも冴えない「対談」。会場からの質問のほうがよかった。「三島との思い出」についての質問-三島に「礼節を弁える」と言われたこと。縦糸が創造で横糸が礼節という創作観。「3.11」についての質問-横尾はあの日ヨコハマトリエンナーレ2011の打ち合わせで有楽町のビル内にいた。激しい地震を体を通して経験。有楽町から世田谷の自宅まで普通は車で30分くらいなのだがこの日は7時間半かかった。途中、横尾は帰宅難民の列に身を投じる。大震災後、東北人はゼロからの出発・破壊からの創造になるが、では自分はどうすればいいのか。彼が大震災前から描いていた絵に真っ黒なY字路がある。その絵が示唆するように、「見えないものを見えるようにする」のが美術であるとしたら、今の自分は「見えるものを見えないように描く」のだ。
僕は横尾の講演は2001年の個展「2つの境域」(今回と同じ富山県立近代美術館)の際に聴いている。あのときは前日のプロ野球の話題を枕にずいぶん饒舌で楽しい講演だった。今回は横尾の希望だったのでしょうが「対談」ってことでちょっとガッカリ。対談相手ももっと適役がいたような気がする。

展覧会を見る。ほぼ10年ごとに区切ったゾーンが6つと「シリーズポスター」の7部構成。
右上にアップした写真は僕のコレクションからです。CLEAR LIGHT1975というカレンダー(オフセット・紙。103×68。表紙を入れて13枚。函入り)です。今回のポスター展では164~175に対応するでしょうね。5000部限定で僕のシリアルナンバーは2284。あの当時の友人の村岡敏夫さん(彫刻家)を通じて購入した記憶がある。横尾は1974年にインド旅行。CLEAR LIGHTは横尾のスピリチュアル傾向の強い作品でしょうね。

今回の展覧会は図録なし。残念。「土方巽 燔犠大踏鑑」「切断された小指に捧げるバラード」「腰巻お仙」などのポストカードを買って帰宅。
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by tiaokumura | 2011-10-29 13:32 | 美術 | Comments(4)

学院長式辞@富山国際学院2011年度10月生・入学式

富山国際学院2011年度10月新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。富山国際学院12名の教員を代表して、皆さんにご入学のお祝いのことばを述べさせていただきます。
首先向富山国际学院2011年10月入学的新生,表示热烈的欢迎。让我代表富山国际学院的12名教师,向新生致贺词。
On behalf of 12 teachers at 富山国際学院 or Toyama International Academy, I would like to express my deepest congratulations to all of you, 2011 October session students.
皆さんの富山国際学院での語学留学にご尽力いただいたご家族・関係者の方々にも、心からお祝いの気持ちを述べさせていただきます。
对你们能来富山国际学院留学给与全力支持的家长及有关人员表示感谢。
I would also like to congratulate your families and relatives who supported you to enter T.I.A.

皆さんご存知のように去る3月11日、東日本大震災がありました。幸いにも富山では被害がありませんでしたが、地震・津波・原発事故と未曾有の国難が日本を襲いました。
众所周知今年3月11日东日本发生了大地震。万幸的是富山没受到什么影响。地震,海啸,原子能泄漏等史无前例的国难袭击了日本。
As you know, Japan experienced the Great East Japan Earthquake on March 11. Fortunately we had no damages here in Toyama, however the most powerful earthquake ever, terrible tsunami waves, Fukushima 1 Nuclear Power Plant accident caused a lot of serious damages in Iwate, Miyagi, Fukushima Prefectures.
今回の大震災において、今この場にいらっしゃる中華人民共和国・ネパール連邦民主共和国・中華民国・パキスタンイスラム共和国はもとより多くの国々や市民の皆様から被災地へのご支援をいただいたことを、日本人の一人としてこの場をお借りして厚く感謝申し上げます。
这次震灾,在座的中国,尼泊尔,巴基斯坦伊斯兰共和国等各国的朋友给了我们很大的援助。借此机会,作为一个普通的日本人向大家表示深深的感谢。
In case of the Earthquake, many countries including People’s Republic of China, Federal Democratic Republic of Nepal, Republic of China, Islamic of Pakistan and many people all over the world extended helping hands to the victims and the afflicted areas. Here I would like to express my sincere thanks to your countries and citizens there.
大震災後私たち日本人は互いに助け合い支え合い、一時の混乱と絶望から立ち直りつつあります。大震災という特別の年に日本留学を果たした皆さんは、日本復興を目の当たりにすることができます。皆さんの母国においては日本についての悪いうわさも流れているでしょう。皆さんが現実の日本を観察して、そのような誤解をなくしてくださるとありがたいです。
地震后,我们日本人相互帮助,相互鼓励,现在不断的从一时的绝望边缘站起来了。大地震的特别的时期,来日本留学的各位,你们会亲眼看到日本的复兴的。大家来日本以前也听到了很多传言吧。现在来到日本,真盼望大家能消除误解。
Post 3-11 we Japanese are helping and supporting each other at the diversity stages. On the other hand I hear that many false rumors about the Earthquake spread in the world. Now that you are both a student studying abroad and an eyewitness of Japan’s reconstruction, I would be very grateful if you tell the true Japan to your family and friends in your homeland.

さて、今、皆さんは日本に留学できた喜びが80%、これからの不安が20%といったところでしょうか。2013年3月の卒業までの1年半、日本で・富山で・富山国際学院で、実りある留学生活を送っていただきたいと思います。
另外,大家能来日本留学大概是8分喜悦,两分不安吧。到2013年3月毕业的一年半的时间里,希望大家能在日本,在富山,在富山国际学院度过很充实的留学生活。
Well, today some are on top of the world, some feel uncertain about the coming days. Anyway, we look forward to your success in your studies for one and a half years.
富山国際学院で日本語を勉強する皆さんのために、一人の日本語学習者の話をします。
给在富山国际学院学日语的留学生讲一位学日语的人的故事。
Let me introduce one person to learn 日本語 around 150 years ago.
今から150年ほど前に日本で活躍した外交官にアーネスト・サトーという人がいます。サー・アーネスト・サトーは、私たち日本人にとっては、日本が古い日本から近代国家に変わることができた恩人の一人です。
有一位150年前活跃在日本的外交官叫埃內斯特•馬松•薩托爵士。外交官薩道義对日本人来说,是一位使古老的日本变成近代国家的恩人。
His name is Sir Ernest Mason Satow. He was remembered as a talent diplomat who changed old Japan into Modern nation.
サトーは父はドイツ人、母はイギリス人です。彼は中国のペキンで少し漢字を勉強した後、1862年9月20歳の頃に日本の横浜に来ました。彼は日本で日本語をどのように勉強したのでしょうか。今のようにいい教科書も辞典もないしパソコンもCDプレーヤーもiPhoneももちろんありませんでした。
薩道義的父亲是德国人,母亲是英国人。他在中国北京学了一些汉字。1862年9月20岁的他,来到了日本的横滨。你知道他是如何学日语的吗。当时教科书,词典,电脑,CD,iPhone根本不存在。
He was a son between a German father and an English mother. After learning Chinese characters in Beijing, he came to Yokohama at the age of 20 in September, 1862. When he arrived at Yokohama he didn’t speak 日本語 well. How did he learn 日本語? In those days they had neither good textbooks nor dictionaries. Of course they had no computers, DVD players, iPhones.
そういう時代にアーネスト・サトーは、積極的に日本人と話し日本人を通じて日本語を学んでいったのです。特に彼のすばらしいところは英語やドイツ語に翻訳しないで日本語は日本語のままで吸収していったところです。
那个时代,薩道義积极的与日本人对话,通过日本人学日语。他出色的地方是他不借助母语,而是吸收原滋原味的日语。
He made his ears and mouth full-open. He tried to do his best to speak and hear 日本語 with those Japanese around him. Especially he tried to understand 日本語 directly. I mean he understood 日本語 without English, Germany.
アーネスト・サトーの日本語学習法から、皆さんにも日本語学習のヒントが2つ見つかるのではないでしょうか。
从薩道義学日语的方法看,大家能得到两点启发。
You, beginners of learning 日本語, can get two hints from Satow’s strategies to learn 日本語.
1.富山国際学院の日本人教師や皆さんのまわりの日本人を大いに利用してたくさん聞きたくさん話してください。
1,要多听富山国际学院的日语老师及你周围的日本人的对话,多和他们会话。
First. As Satow did, you should listen to and speak to Japanese around you as hard and many as possible.
2.この学校の日本語の教え方は「日本語直接教授法」といって、日本語で日本語を教える教え方です。皆さんはできるだけ母語に翻訳しないで日本語を日本語のままで覚え使えるようになってください。
2,本学校的日语教育方法是日语直接教授法。用日语教日语。大家尽量也不借助母语,尽可能的吸收原滋原味的日语。
Second. Our teaching method here is named ‘Direct Method'. We teach 日本語 without using any other languages such as Chinese, English, Nepalese. It is very important for you to understand 日本語 by 日本語.

皆さんがこんなにたくさんの日本語を聞くのは初めてかもしれませんね。今日はまだ通訳が必要ですが、2013年3月15日の卒業式では、私のスピーチが日本語のままで理解できていることでしょうね。その日を楽しみにしています。
也可能大家今天是第一次听到这么多的日语。今天还是有必要给大家翻译一下的,在2013年3月15日毕业式上,希望大家能直接接受我的日语。盼望那一天的到来。
This is your first time to listen to so many 日本語. Today you need translators but at your commencement exercises on March 15, 2013, I believe that you can get my messages through 日本語 without translators.
これから1年半、泣いたり笑ったりいろいろなことがあります。いいこと・楽しいこと・嬉しいことばかりではありません。つらいこと・いやなこと・苦しいこと・困ったこともたくさん出てきます。それらのどれもが、皆さんの成長・自立に役立っていきます。
未来的一年半,会发生很多事情。不仅是好事,愉快的事,也会发生很多难过的,讨厌的,辛苦的,辣手的事情。所有这些都会对大家的成长,自立有好处。
Until the day of the commencement exercises, you will face not only happy time but also hard time for one and a half years. No one can avoid trouble and difficulties. I’m sure all sorts of experiences in Toyama make you grow up.
私たち12名の日本語教師は皆さんのために精一杯の努力をします。皆さんも自分自身のために、そして母国の家族や友人のために、ここ富山で悔いの残らない留学生活を送ってください。日本留学を通じて皆さんが大きく成長することを願って学院長式辞をおわります。
我们12名教师,为大家会尽全力的。也希望大家能为自己为祖国的亲人朋友,在富山度过无悔的留学生活。希望大家通过留学日本都成长起来。我就讲到这儿。谢谢。
Keep a touch mind to challenge for the brilliant future. 富山国際学院 welcomes all of you, and hopes you will spend the very best and delightful lives here. Congratulations to 13 new students from four countries, again. Thank you.

2011年10月28日 
富山国際学院・学院長 奥村隆信
October 28, 2011
Toyama International Academy
Principal:OKUMURA Takanobu

(注)
本式辞の中国語部分は、銭輝先生(富山市民国際交流協会)に翻訳していただきました。銭輝先生、ありがとうございました。
钱辉老师(富山市民国际交流协会)为中文翻译了日语。钱辉老师,谢谢!
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by tiaokumura | 2011-10-28 16:53 | 僕は学院長3年生 | Comments(0)

抗癌剤、5クール目へ

今日10月27日(木)、予約済みの病院へ。今日の富山は最高気温が20℃を割り、最低気温が10℃に達しない-このくらいが精神には(肉体にも?)一番いい気候なんじゃないでしょうか。秋の凛とした空気、暑からず寒からず。
病院は8時半の予約だったんですが、朝ちょっとバタバタしてて病院に着いたのは8:20頃。受付を済ませ、外科の前で待つ。この日、採血・検尿はなし。血圧・体重測定。血圧99-65、脈拍85でした。最近では一番いい値かも。体重、服を着たままとは云え54.5kgもあって驚く。服の分を差し引いても52kgはあるでしょうね。2週間ほど前は49kgがやっとだったのに。体重増加の勝因^^は2つかな。抗癌剤の休薬期間に入って2週間になること、3食はそれほど量が増えていないが10時と3時に間食していること。自分、間食ってせんほうだったんですが、ここんとこコンビニで買ったおせんべいとか歌舞伎揚げとかビスケットを食べています。いろいろ試してヒットするお菓子を探している。こういうのも以前の自分にはありえなかったことですね。

8:45、主治医のTドクの診察。
明日10月28日(金)から抗癌剤TS1服用の5クール目。2週間飲んで2週間休む。服用8日目にシズプラチンの点滴注射。シズプラチンは毎クールやるのは体への負担が大きいようで、確か2・4クール目にはやらなかった。今回は11月4日(木)、シズプラチン点滴注射で入院。前回(3クール目)は8日間の入院だったのですが、今回はTドクによるとそんなに入院する必要はないそうで、7日(月)か8日(火)には退院できそうです。外来で1日でシズプラチンをやる人もいるそうですが、僕の場合、入院してやったほうがラクだなあ。
あと再発のチェックを年内か年明け早々にPETなどで。これは入院しないで通院でできるそうです。

会計を済ませて、病院近くの薬局へ。抗癌剤のティーエスワン、消化関係のウビロン錠・タフマックE・酸化マグネシウム(1日3回毎食後)、前立腺肥大のフリバスOD錠・ベシケアOD錠(1日1回夕食後)を受け取る。自分、まるで薬のデパートみたい^^。半年ほど前までは薬なんて(サプリメントや栄養剤の類も含めて)ほとんど無縁だったのが、今じゃ大違い。
TS1の値段ですが、僕の場合は25mg×2を1日朝夕2回の14日分で4,5500円みたい。実際に支払ったのは保険で3割負担になるので1,3650円でした。
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by tiaokumura | 2011-10-27 19:17 | 癌日記 | Comments(2)

「僕は20歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどと・・・」(ポール・ニザン)

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僕は20歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も家族を失うことも、大人たちの仲間に入ることも。世の中でおのれがどんな役割を果たしているのか知ることは辛いことだ。(ポール・ニザン『アデン・アラビア』篠田浩一郎・訳)

池澤夏樹の個人編集による「世界文学全集」(河出書房新社)、評判がいいようですね。ポール・ニザン『アデン、アラビア』が小野正嗣訳で入っているそうです。
先日本棚を整理してたら、たぶん1969年頃(23歳頃)の読書ノートが見つかった。引用ごとに1~137nまで振っていて、それらは当時読んだ本からの引用が主で、ときどき本以外からも抜き書きしている。今読み返してもようわからん^^抜き書きも多い。「若い」って乱暴でワガママで目一杯背伸びしてたんでしょうね。ノートにはポール・ニザン(Paul Nizan1905-40)からの引用(上記)もあった。中には何からの引用なのかもうわからないものも多いが^^、以下ノートよりごく一部を写す。
末期癌になって、臨死体験こそしていないが「死」が身近にはなった。そんなことを言うと「縁起でもない」とか「まだまだ生きなきゃ」とか言われるのだが、まぁ事実として死に近いことは確か。絶望しているわけではない。今朝の日経が須賀敦子(浦田憲治「忘れがたき文士たち」)、讀賣が向田邦子(「HONライン倶楽部」)をそれぞれ読書欄で取り上げていた。須賀も向田も近いうちに読み返したい。「読書が趣味」とまでは言えない自分だが、余命人生、活字の喜びにまだまだ出会えそうである。

4金が何よりも醜悪で厭らしいゆえんは、人間に才能さえ与えるからだ。
13これがありのままの自分だ。自分がなりたいと願った姿ではない。だが、そんなことも平気だ。実を言えば、自分がまだ分らないんだ、それを探し求め、まだ発見していない。これでこそ、僕は生きている自分をかんずる。
48宿昔青雲志 蹉跎白髪年 誰知明鏡裏 形影自相憐
62aどんな人生にも、とりわけ人生のあけぼのには、のちのすべてを決定するような、ある瞬間が存在する。そんな瞬間は、あとで見出すことが困難だ。それは時刻の堆積の下にうずもれている。時刻は、それの上を無数にすぎて行ったのであり、そうした時刻の虚無は畏怖を感じさせる。
78kわたしにはわかっている。わたしは、これ以上生きていたくないのだ。わたしには自分の言葉も、考えも、願望もたいくつなのだ。わたしには人々も、彼らの生活もたいくつだ。彼らとわたしのあいだには障壁がある。超えがたい障壁がある。
84e死よ!こうしていながら、やがてはぼくもきっと幸せに死んでゆくのだ。そしてそのときまでに、ぼくは、ぼくの希望の一切を食べつくしてしまうだろう。
92h思想・観念が衒学的な知識や思いつきに終るか、一つの<志>となるかは、一にかかって持続するか否かにある。そしてその持続の間に、自己の行為や生活や存在のあり方、どこまで深くかかわらせるか、あるいは乾燥した観念にどれだけ情念を没入するかにかかっている。
118a人間は、ひとつの言葉を自分なりの言い方で用いることで、独特の現実感、いいかえればひとつの世界の見方をえらぶことになる。
122iくる日も、くる日も、空虚で、どこにも、身を支える処の無かった昔に比べると、今のほうが、切り抜けるのには、意外に楽である。

このノート、この後じっくり読む機会がありそう。
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by tiaokumura | 2011-10-23 15:52 | 言の葉つれづれ | Comments(4)

『ショパン 愛と哀しみの旋律』@フォルツァ総曲輪

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(10月22日夜・記)
芸術の秋、読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋・・・さまざまな「枕詞」が冠せられる秋。先日の朝日新聞富山版佐伯龍蔵が「天才の旋律に浮かぶ『運命の皮肉』」というタイトルで映画『ショパン 愛と哀しみの旋律』を紹介していて、ぜひ観たいと思った。「映画の秋」になるでしょうか、10月22日(土)、「フォルツァ総曲輪(そうがわ)」で映画『ショパン 愛と哀しみの旋律』を観た。
10月22日(土)11時前、車で家を出る。約1か月ぶりの総曲輪。グランドパーキングに駐車。ずいぶん込んでて20分ほど路上で待つ。あとで知ったことですが、この日この駐車場は無料開放だった。駐車に時間がかかったせいで予定していた店での昼食時間がない。駐車場から徒歩約10分、フォルツァ総曲輪の入っているビルの1Fの「地場もん屋」で赤飯・トリからあげを買って食べる。地元紙の北日本新聞によるとこの「地場もん屋」は開店一周年だそうで、「店の認知度が上がるにつれ、客数が増えており、新鮮な野菜や果物などが人気だ。出荷する生産者も徐々に増えており、現在約160団体・個人に上る」そうである(北日本新聞10月22日付)。

ビルの4F、フォルツァ総曲輪。シニア料金1000円、パンフレット600円。
『ショパン 愛と哀しみの旋律』(原題Chopin, pragnienie milosci。2002年ポーランド映画。英語)。
監督イェジ・アントチャク(1929-)、撮影エドヴァルト・クウォシンスキ(1943-)、衣装マグダレナ・テスワフスカ(1945-)。俳優は、フレデリック・ショパン(Fryderyk Franciszek Chopin1810-49)をピョートル・アダムチク(1972-)、ジョルジュ・サンド(George Sand1804-76)をグヌタ・ステンカ(1961-)。ポーランド映画っていうと、アンジェィ・ワイダ(Andrzej Wajda 1926-。『灰とダイヤモンド』『鉄の男』『ナスターシャ』『カティンの森』など)しか知らない。グヌタ・ステンカは『カティンの森』(2007)に出ているそうです。
フレデリック・ショパンはペスト禍のパリでジョルジュ・サンドに出会う。初めはサンドの一方的な愛であったが、ポーランド貴族の娘との結婚が叶わなかったショパンはやがてサンドに魅かれていく。ショパンとサンドのロマンスは有名ですが、サンドの息子モーリス、娘ソランジュのことはこの映画で初めて知りました。パリ、マヨルカ島、ノアン-ショパンとサンドの8年の愛憎劇の舞台。映画のラスト、ショパンの姉がショパンの心臓を抱いて祖国ポーランドに帰る。
この「伝記音楽映画」、当然のことだが音楽もすばらしい。演奏は、ヨーヨー・マ(チェロ)、ヤーヌシュ・オレイニチャク(ピアノ。『戦場のピアニスト』のサントラ演奏)、エマニュエル・アックス(ピアノ)、横山幸雄(ピアノ)、ヴォイチェフ・ミフニエフスキ指揮ポーランド放送交響楽団。昨年が生誕200年だったショパン。僕は「ラ・フォル・ジュルネ金沢」に行き、NHKハイビジョンで「生誕200年・みんなのショパン」を観た。横山幸雄(よこやま・ゆきお1971-)はNHK同番組の主要な出演者だった。坂東八十助みたいな顔だったような記憶がある^^。同番組では「私の好きなショパン」ランキングもあり、3位「幻想即興曲」・2位「ピアノ協奏曲 第1番」・1位「英雄ポロネーズ」で、「英雄ポロネーズ」を横山が演奏。
本映画での横山演奏は以下の通り。
練習曲第23番 イ短調Op.25-11《木枯らし》  練習曲第12番 ハ短調 Op.10-12《革命》 練習曲第18番 嬰ト短調 Op.25-6 練習曲第18番 嬰ト短調 Op.25-6  練習曲第4番 嬰ハ短調 Op.10-4 練習曲第6番 変ホ短調 Op.10-6

(注)
本記事は『ショパン 愛と哀しみの旋律』パンフレット、同映画公式サイトを参考にしました。
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by tiaokumura | 2011-10-22 12:04 | 映画 | Comments(0)

「県立高入試問題にふりがな」(朝日新聞富山版2011年10月21日付)

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日本語能力にハンディがある外国人生徒の県立高校受験に際し、県教委は2012年度入試から設問の漢字にふりがなを付ける特別措置を始める。
(中略)
今後、県立高入試についてのパンフレットやDVDをポルトガル語など生徒の母語で作成し、生徒や保護者向けの説明会も母語で解説するという。
朝日新聞富山版2011年10月21日付)

左にアップした写真中の上は今朝の朝日新聞富山版、下は10月15日付北日本新聞。同じネタの両記事ですが、北日本が朝日より6日先行以外にも2つの点で違いがある。見出しが朝日「県立高入試問題にふりがな」、北日本が「高校入試に振り仮名」。「ふりがな」と「振り仮名」、両新聞社の表記基準の違いからなんでしょうが、僕にはちょっと興味深い「違い」である。もう1つは、上に引用した朝日の後段が北日本にはないこと。情報源が同じ(富山県教育委員会)2社の記事、もし優劣をつけるとしたら、「説明会」にも触れた朝日に軍配でしょうか。

「外国につながる子どもたち」(回りくどい言い方だがお許しを)の高校進学について、僕も少し関わっている。
EPAによるインドネシア人・フィリピン人看護師候補・介護士候補でも「日本語」の壁が問題になっている。前回の看護師国家試験からふりがな・英訳が一部取り入れられている。それでも合格のハードルは高い。不合格者(3年以内に合格しないと帰国しなければならない)の救済措置として政府によるビザ延長の特別措置もとられたが、対象者のかなりが帰国を選んだ。日本に失望しての帰国も多かったでしょうね。せっかくのEPAによるプロジェクト、縦割り行政の弊害でしょうね、けっきょく実効が挙げられないでいる。
県立高入試問題にふりがな」はありがたい措置ではあるが、これだけで「アリバイ作り」とはされず県教委の更なる配慮を望みたい。また一方では、特別措置がなくても合格できる力をつける、あるいは、高校進学後のフォローなど、個人や組織による支援も引き続き課題である。
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by tiaokumura | 2011-10-21 19:05 | 富山 | Comments(2)

山本作兵衛『画文集 炭鉱(ヤマ)に生きる 地の底の人生記録』(講談社)

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山本作兵衛(やまもと・さくべえ1892-1984)
新装版『画文集 炭鉱(ヤマ)に生きる 地の底の人生記録』
2011年10月5日 新装版第6刷(1967年10月第1刷 2011年7月新装版第1刷)
講談社
1700円+税

僕たちが小中学生の頃(僕は昭和21年生まれだから昭和30年代とほぼ重なる)、教室の暖房は石炭だった。日直が決まってて教室の石炭ストーブ用の石炭を校庭にあった石炭置き場から補充してたように思う。石炭ストーブを囲んでだべったり弁当(小学校は給食で中学校は弁当だったように思うが記憶違いか)を温めたりしてた。あの石炭の産地はどこだったのだろう。『昭和25年版 中学校社会科地図帳 復刻版』(帝国書院)によると昭和23年日本の石炭産額は3398万トンで内訳は九州55%、北海道26%、東部10%、西部9%(p61)。北陸に炭田はなかったから、ひょっとして九州からの石炭だったのかもしれない。エネルギー革命の前、石炭が重要な基幹産業だった時代。
北陸の地で生まれ育った身としては、筑豊炭田について知るところは少ない。ボンヤリと思いつくのは、例えば五木寛之『青春の門』。最初の映画化では(1975年。監督・浦山桐郎)、牧織江を大竹しのぶ、伊吹信介を田中健、重蔵・仲代達矢、タエ・吉永小百合など。1981年版の映画の主題歌がシンガーソングライター山崎ハコの『織江の唄』。五木寛之は山崎ハコを高く評価してた。土門拳(どもん・けん1909-90)『筑豊のこどもたち』(1960)、『古寺巡礼』の前の写真集になる。大衆演劇の「嘉穂劇場」。椎名林檎が2000年にライブイベントを行っている。谷川雁(たにかわ・がん1932-95)、上野英信(うえの・えいしん1923-87)。これは若松になるが火野葦平(ひの・あしへい1907-60)の『花と竜』。僕は石原裕次郎の玉井金五郎、浅丘ルリ子のマンの日活映画(1962。監督・舛田利雄)を見ている。主題歌を石原裕次郎が歌っていた。それからこれも筑豊ではないが三井三池争議。僕は中学生だったが「総資本対総労働」を覚えている。闘争は労働側の敗北で終わり、やがて1963年には三井三池三川炭鉱炭塵爆発で多数の死者と多数の一酸化炭素中毒を出した。石炭産業は完全に斜陽化してたでしょうね、もう。
昭和30年代、わが家の暖房はこたつと火鉢でした。高校生頃には受験勉強時に足温器なんてのを使ってました。

皆さんはどうだったでしょう、僕は「山本作兵衛」も「世界記憶遺産」も全く知らなかった。新聞記事で初めて知った。UNESCOの世界記憶遺産(Memory of the World)の狙いはpreserving and digitizing humanity’s documentary heritageだそうです(Wikipedia)。山本作兵衛が没して7年後、「平成23(2011)年5月には589点の絵画や108点の日記・ノートなどがユネスコの認定する『世界記憶遺産』に日本国内から初めて登録された。」(本書「山本作兵衛略歴」より)。
本書、「Ⅰヤマの生活」「Ⅱヤマの米騒動」「Ⅲヤマの労働」で構成され、山本の画文がカラーまたは白黒で収録されている。
併せて、上野英信「序にかえて」・永末十四雄「解説」・金子光晴「鉱夫の歴史を伝える画文集」・石牟礼道子「作兵衛さんの絵」・菊畑茂久馬「不世出の千両役者に似て 暗闇つき抜けた清冽さ」・南伸坊「山本作兵衛さんのこと」、及び山本作兵衛「あとがき」。南伸坊と山本作兵衛の結びつきって「?」ですが、南は菊畑茂久馬が「1970年、わたしは東京の若い画学生たちと作兵衛さんの絵を大きな壁画にする作業に取り組んだ」(菊畑「不世出の千両役者~」p208)ときの画学生の一人になります。本書の装丁は南伸坊。
山本は明治32年の夏、「小学校2年生で、数え年の8つ」のときに炭鉱で働き始める(p94)。「朝は2時から3時に起きて入坑し、10時間も12時間も働く」(p95)。山本の職場「位登炭鉱」が閉山になったのは昭和30年。その後山本は夜警に。「絵を描きはじめたのは、33年5月ごろから](p117)、山本は還暦をとっくに過ぎていた。「昔のヤマの様子を描いて子孫の語り草に残しておくのもまた一興かと思い、脳裏に浮かぶまま、1枚また1枚と描き重ねました。」(p117)。
他人に見せようなどとは夢にも想像せず、また見せられるようなしろものでもありません。貧乏に生まれて知恵もなく、一生をようするに社会の場ふさぎとして過ごしてきた一人の老坑夫のまずしい記録にすぎません。したがって、ただひたすら正確にありのままを記すことのみを心掛け、それ以外のことは考える余裕もありませんでした。これから五十年、あるいは百年の後、孫やその孫たちが、こんなみじめな生活もあったのか、と心から思えるような社会であってほしい。それだけがせめてもの願いであります。(p119)

本書、貴重な出版物であることは確かであるが、もっと大きいサイズで全てカラーで見てみたい。世界記憶遺産の狙いがデジタル化でもあるのだから、山本の作品がデジタル化されて世界中で閲覧できるようになったら、山本作兵衛さんの画文に込めた想いが地球規模で末永く伝わることでしょうね。

(注)
本記事はWikipedia日本語版・英語版を参考にしました。
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by tiaokumura | 2011-10-20 19:44 | | Comments(2)

富山発! 未来を築くダイバーシティ@ウィングウィング高岡

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僕は、現在の勤務先の富山国際学院には1994年4月に「非常勤講師」として入ったのだが(2008年に専任、09年から学院長)、学院自体はその前年1993年4月に1期生を迎え入れている。更にその開学(設立)準備となるとその1年以上前から始まっていたことでしょうね。
富山国際学院には現在僕を含めて12名のスタッフがいるが、その中に先輩が3名いらっしゃる。学院の設立準備段階からスタッフに加わってらっしゃた方々になるのでしょうね。3人は石川純子さん・佐野久美子さん・宮田妙子さん-あっ、僕の先輩だからといって僕より年上ってわけじゃありません^^、念のため。同輩は3人くらいいたように思うけど今はいない。12名中8名が僕の「後輩」になる。今年で開学19年目になる富山国際学院は働きやすい環境なんでしょうね、12名の在職歴平均8年くらいになるかも。日本語学校って待遇面や人間関係が原因で教師の移動が激しい学校もあるやに聞きますが、うちはまあ良いほうなんでしょうね(時給が高いってことじゃありません^^)。
僕は古い人間なんでしょうね(照)、義理人情を重んじ(って云うか自分じゃ尊重しとるつもり、実態は踏みにじっとるかもしれんけど^^)、先輩後輩を弁えて(これも実態は違うとるかもしれんけど^^)生きている。石川先輩・佐野先輩・宮田先輩は、存在自体が「頼れる先輩♪」であり日本語教師としてのロールモデルでもある。

先日学院で宮田妙子先輩から11月に高岡(富山県第2の都市)であるイベントの情報を得ました。彼女が代表を務めている「NGOダイバーシティとやま」のフォーラム。
僕、「ダイバーシティ」って聞いて、「ダイバー+シティ」の造語でダイビングスポットに近い「ダイバーの集まる都市」のことかと思いました(激爆)。ダイバーシティってdiversityなんですね。手元のLONGMAN(1978)で調べると、
the condition of being different or having differences ; variety
って定義で、Mary has a great diversity of interests : she likes sports, travel, photography, and making radio setsって例文が挙がってました。なるほど。ぴったりの既成概念が日本語にないのでカタカナ語を使うのでしょうが、ボク、英語は苦手なんで、カタカナ語、ちょー苦手っす。日本語教育もそうですが、今の時代、カタカナ語多い。自分じゃなるべく使わないようにしてますが、当ブログ、一般流通じゃないカタカナ語もときどきあるでしょうね、反省。
ダイバーシティー、ネットで調べると、「ダイバーシティ研究所」がヒット。多文化共生関係でよく名前を目にする田村太郎が代表理事。田村さんは僕がぜひ講演を聴きたいと思っている方のお一人。11月26日(土)に「多文化共生理解講座2011」ってのの講師でご来富。僕の場合当日の体調次第ですが、聴きに行きたい。
ネットで見た「ダイバーシティ研究所」の設立理念には
私たちは、ダイバーシティを「構成員のひとりひとりが『よりよい明日』をめざして活躍できる地域のありよう」と定義し、「人の多様性に配慮した組織や地域社会づくり」を支援する非営利団体です。
と掲げられています。

上にアップした写真は宮田さんからいただいたリーフレットです(ただし表のみ)。以下、リーフレットより「NPOダイバーシティとやま設立記念フォーラム 富山発!未来を築くダイバーシティ」の主な内容を引用。

私たちは富山県を拠点としてダイバーシティを推進する民間団体「NGOダイバーシティとやま」を設立しました。
人には性、年齢、学歴、病、障がい、文化、国籍、民族、宗教など、多様なちがいがあり、ちがいが原因で対立を生むこともあります。しかし、わたしたちは、ちがいに気づき、ちがいを生かすことで、ちがいが創るしなやかな地域社会が生まれることを提案します。
ダイバーシティというものは、難しいものではなく、ふと気づくことで、日常生活を豊かにするものだと、みなさんに知っていただきたいと思います。ぜひ、フォーラムにお越しいただき、それを共感してください!

NGOダイバーシティとやま設立記念フォーラム 富山発!未来を築くダイバーシティ
日時:2011年11月3日(木/祝日)13:00~16:30
会場:ウィングウィング高岡4Fホール(車椅子の方専用スペース、親子室あり)
参加料:無料
プログラム
第1部 挨拶と基調講演
 挨拶・提言 宮田妙子「ダイバーシティとやまが目指すもの~多文化共生なとやまの未来~」
 基調講演 柴垣禎「人の多様性が地域社会の未来を築く~Diversity & Inclusion~」
第2部 事例を通じて知るダイバーシティ
 事例① 小島祥美「外国にルーツを持つ子どもたちの今と未来」
 事例② 戸枝陽基「+思考で障がいが活きる経営戦略」
第3部 パネルディスカッション「多様な取組から発進するダイバーシティ」
 パネリスト 宮田妙子・鈴木暁子・小島祥美・戸枝陽基・青木由香・宮田隼
 モデレーター 柴垣禎
申し込み・問い合わせ:diversity.t@gmail.com

自分が行けるかどうかわからないのに宣伝もヘンですが(汗)、志ある方々のご参加を期待したい。
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by tiaokumura | 2011-10-19 18:47 | 富山 | Comments(2)

児玉龍彦『内部被曝の真実』(幻冬舎新書)

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児玉龍彦(こだま・たつひこ1953-。東京大学先端科学技術研究センター教授、東京大学アイソトープ総合センター長)
『内部被曝の真実』
2011年9月20日第3刷(2011年9月10日第1刷)
幻冬舎(幻冬舎新書)
720円+税

本書、今最も読まれるべき本の1冊なんでしょうね。ただ、幻冬舎(代表取締役社長・見城徹)らしいキャッチコピーなんでしょうが、「正義の科学者による魂のスピーチ」(帯より)は、サンデル教授の正義を意識してるんでしょうかボクのような不感症男にはあまりピンと来ない。
僕は2011年3月11日(金)はいつものように富山国際学院に出勤していた。夜はずーっとテレビを見ていたでしょうね。翌日は、卒業式が翌週なので床屋に。行きつけの床屋さんがオヤジさん(古筆学の小松茂美先生にそっくりな方)の大病で廃業になり、近所の別の床屋さんに。テレビ、やはり東北地方太平洋沖地震。30代の女性、津波が襲った後の自宅前でインタビューに答えている。彼女は前日職場から自宅に戻ったが、夫も子どもも津波にさらわれ行方不明。「ひとりぼっちになった」と訴える。繰り返し流される津波の映像。見ているうちに、安全地帯にいる自分の中に形成されるそのような映像からの道徳感情に嫌悪感を感じた。結局自分は、悲惨さへの「同情」であり、「他人の不幸は鴨の味」のレベルでの「憐憫」。3月12日以降もTVニュースを見はしたが、その内「大本営発表」ばかりで見なくなった。4月10日にNGOのボランティアバスで宮城県石巻に。あの時の体験は生涯忘れられない。また石巻に行こうと思っているうちに癌患者になり入院。7月27日は僕は入院中だった。児玉龍彦という学者の衆議院での参考人説明が大きな反響を呼んでいるのは、岩手県一関市のかねごん先生のブログ7月29日付「僕らは希望を失ってはいけない!」で初めて知った。同記事にはYouTubeの映像もアップされていた。
唯一の被爆国でありながら&あるが故の「原子力平和利用」幻想。政官産学そしてマスメディアが形成した「原子力村」。垂れ流された安全安心神話。過疎の地を潤した巨額のマネー。安全地帯に住んで直接間接に原発の恩恵に与っている「私」たち。原発人災が起こると掌を返すように脱原発に走った輩。そんな中にあって、「国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関(日本国憲法第41条)」である国会での児玉発言、多くの国民に勇気と希望を与えたことでしょうね。

本書は、第一部が「7・27衆議院厚生労働委員会・全発言」で、第二部が8月6日の「ニュースにだまされるな!」というTV番組に児玉がゲスト出演した際の国会発言に対する疑問・批判への答えの整理採録。同番組の司会の金子勝は「中学時代からの親友」(p52)とのこと。第三部・第四部ではチェルノブイリ原発事故が扱われ、第三部で「甲状腺がん」、第四部で「チェルノブイリ膀胱炎」。「おわりに」として「私はなぜ国会に行ったか」。7月19日の畦地悟史(衆議院事務局)からの電話が始まりのようである(p108)。「付録」に「国会配布資料」。
今回の原発人災で多くの「エセ専門家」が暴かれた。児玉は言う、「専門家とは、歴史と世界を知り知恵を授ける人」(p112)であると。
危険なことがあったら、これは本当に危険だから、苦労があっても何でもやっていこうと国民に伝えるのが専門家です。みんなが専門家に聞きたいのは、何も政治家みたいに折り合いをつけることじゃない。危険を危険だとはっきり言うのが専門家なのです。
今までの原子力学会や原子力政策のすべての失敗は、専門家が専門家の矜持を捨てたことにあります。国民に本当のことを言う前に政治家になってしまった。経済人になってしまった。
(p61)

ここのところYouTubeがアップできない状態だったのですが、今日午前あれこれやってたらアップできるようになりました。以下に7月27日衆議院厚生労働委員会での児玉龍彦参考人の説明映像をアップしておきます。

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by tiaokumura | 2011-10-16 15:20 | 東北地方太平洋沖地震 | Comments(0)

下部消化管内視鏡検査

2011年10月12日に下部消化管内視鏡検査をした。下部消化管内視鏡は通称「大腸カメラ」。ちなみに「胃カメラ」は上部内視鏡です。大腸カメラは僕は2回目の経験になるかなぁ。胃カメラは9月12日に3回目の経験をしました。
大腸カメラの経験者はおわかりだと思いますが、これ、けっこうキツい。僕の経験から言うと、胃カメラよりキツい。

9月30日(金)
外来診察の日。主治医のTドクから大腸カメラの説明など受ける。担当ナースから大腸カメラのための前日・当日の準備についてレクチャーを受け、前日・当日の下剤を渡される。問診票・承諾書(承諾者の署名が必要)も。
この日の薬局での支払い、抗癌剤「TS1」などで合計16970円。TS1、4クール目に入りました。2週間服用し、「シスプラチン」は今クールはなし。
10月11日(火)
大腸カメラは前日から準備が要る。夕食は午後8時までに済ませ、以後検査終了まで水分のみ可。水分は水・お茶・スポーツ飲料などがOKで、牛乳・コーヒー・100%ジュースは不可。午後9時、下剤(センノサイド2錠とシンラック1本)をコップ1杯以上の水で飲む。
10月12日(水)
自宅にて
①「大腸内視鏡検査を受けられる方へ」を見ながら、下剤「マグコロールP水溶液」1800mlを作る。
②午前9時~11時の2時間の間約10分おきにコップ1杯分ずつマグコロールP水溶液を飲む。味はポカリスエットを薄味にしたような味です。1・2杯ならどうってことないのですが、何杯もはキツい。
③僕は、これも抗癌剤の副作用でしょうか、味覚障害・食欲不振以外に便秘気味。以前はほぼ毎日お通じがあったものですが、抗癌剤以降は4日間便秘も珍しくなくなった。それがやはり下剤の効果でしょうね、3回排便があった。排便1・2回目はけっこうな量の固形物で3回目は水便。「大腸検査ができる便の状態」については、ナースからいただいたプリントにカラー写真で出ているのですが、「粒がなく、黄色透明」から「ほとんど無色透明」が検査準備完了にあたる。この日の僕の場合、もう2~3回排便があったほうが理想の状態になるんでしょうが、これ以上の排便はなかった。
病院にて
④受付を済ませ外科の前で待つ。指示されて14番へ。
⑤病衣に着替え検査室に入る。この病院、外科医は5人で僕は顔見知りですが、大腸カメラのご担当は(たぶん)内科医だった。ベッドに横たわる。病衣はお尻部分が開けられるようになっている。内科医が「麻酔ゼリー、塗りますね」ってことで肛門にゼリーを塗る。僕の右斜め上にモニター。大腸カメラが肛門から中に入っていく。ときどき苦痛。ベッドの手すりをギュッと掴んで我慢する。モニターを見ていると背後に主治医のTドクの声。担当患者なので同席されてるんでしょうね。医者同士がときどきあれこれ画像分析。モニターを見てると、たぶん便でしょうね、黄色い固形物が散在してて申し訳ない気持ちになる。癌細胞でしょうか、グロテスクな塊がいくつか。カメラの先端がハサミみたいに開いてそこからクリップのようなものが出て一番ひどそうな箇所にマーク。
⑥カメラ終了。Tドク、「前回より進行はしてないみたいです。詳しくは14日に」。
⑦支払い。領収書を見ると大腸カメラは「検査 968点」に当たるのでしょうね。3割負担で3000円くらいでした。
10月14日(金)
9時前病院。採血。血圧測定(82-53、脈拍72)。血圧、ずいぶん低い。これも抗癌剤の影響になるのでしょうね。体重51.1kg、ただし服を着て測っているので実質49kgくらいでしょうね、退院後もちっとも増えていない。
主治医のTドク。「大腸癌」については年内の入院・手術は必要ないとのこと。12日に大腸内でマークした箇所が一番ひどい「ポリープ」になるのだが、手術した時の出血が心配なので当分はこのままに。抗癌剤のこれまでの効果については、血液検査による腫瘍マーカーは順調で、CEA(基準値0.0~5.0。以下同じ)は2.0、CA19-9(0~37)は9。白血球数(3.5~9.0)は3.2、赤血球数(4.20~5.60)は2.96でまだまだ。
年明けに造影剤も使っての詳しい検査実施。普通は手術後1年後くらいなのだが、僕の場合はやはり末期癌ということもあって手術後半年くらいで再発・転移・進行のチェックが必要とのこと。

次回の診察は10月27日(木)。今後の予定などを決めます。少し前までは年内に入院し大腸癌の手術も、と思っていましたが、そちらは年内なしに。年内に入院するとしたらシスプラチンをする場合です。
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by tiaokumura | 2011-10-15 19:29 | 癌日記 | Comments(6)