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高橋和巳、生誕80年

ブログに寄せられるコメントはブロガーの楽しみの一つ。8月28日、「あや」さんという方から初めてのコメントをいただいた。対象記事は「邪宗門忌(高橋和巳三十八回忌)」(2009年5月3日付)」。以下あやさんのコメントを全文引用。
ふと思い付いて,検索してたどり着きました。
二度と,辿り着けないかも。。。
邪宗門,好きです。
高橋和巳さんの著作も,ほぼ全制覇してます。
おそらく,コメントを寄せる中では最年少でしょうか,38歳です。
私の卒業した中学では,先輩から後輩へという形で「その人が好みそうな和巳さんの小説を与え,ファンとして引きずり込む」「引きずり込まれた人間は,卒業までに次世代を見つけて,ファンとして育成すること」というのが不文律のように存在していて,知っている限り,数世代辿れます。
その伝統も私のところで,絶えてしまいました。

僕が高橋を知ったのは高校時代で本格的に読み始めたのは大学時代だから、時代が違うとはいえ、あやさんたちの中学校は実に早熟。「その伝統も私のところで,絶えてしまいました。」とのことですが、高橋和巳の作品が若い世代にも読み継がれていることを知り、とても嬉しかった。Amazonで調べると『邪宗門』は現在新本では入手困難みたい。残念。

今日8月31日は日本では稀有な思想小説の書き手・高橋和巳(たかはし・かずみ1931-71)の誕生日である。彼が生きていれば80歳ということになる。先日亡くなった小松左京の若い頃の話に高橋も出ていたが、二人は同年生れで京都大学で同窓(小松が1学年上?)。他には大岡信・谷川俊太郎が高橋と同年生れ。高橋は39歳で夭折しているので、今年は没後40年でもある。前記事の松村謙三と同じ年に亡くなっている。

2年4か月ほど前(僕は62歳)の記事になるが、高橋和巳の誕生日に以下の記事を再録しておく。こういう記事を書いたことを思い出させてくださった「あや」さんに感謝。

再録:「邪宗門忌(高橋和巳三十八回忌)」(2009年5月3日付)
高橋和巳が、60とは言わないがせめて50歳まで生きていたらなどと考える誘惑は封印すべきだろう。人は死ぬべくして死ぬのである。昭和6(1931)年8月31日、大阪市浪速区貝殻町に生まれた高橋は、昭和46(1971)年5月3日午後10時55分永眠。葬儀は5月9日、青山葬儀所にて営まれた。葬儀委員長は埴谷雄高。
和子(たかこ)の「臨床日記」(『文芸』高橋和巳追悼特集号に所収)から引用する。原文縦書き、用字用語はママ。
(前略)八時ごろ。湯で顔と手をふいてやる。右の眼尻に一滴の涙がこぼれていた。泣いてるの?と言って、私はそれを指先で拭きとった。坂本氏こられる。(略)埴谷氏が高橋君と耳許で大きく呼ばれた時だけ、主人は両眼をひらいた。(略)母が和巳、和巳と泣きさけぶと、右眼だけが少し反応した。私は一度も呼ばなかった。(略)深夜ちかくになって、ふいに呼吸が間伸びしてきて、息が薄くなったかと思うと、息絶えた。十時五十五分。病名を知らず、不可能な時間を夢みたまま、主人は命を終えたのであろう。やすらかな顔であった。
念のため付言すると、「坂本氏」は坂本一亀(坂本龍一の父)、「埴谷氏」は埴谷雄高。和子は京都大学で和巳と同窓(和巳は中文、和子は仏文)で、和巳没後に形而上学的小説を何篇か発表し今はフランスで修道尼になっているとか。

僕が「高橋和巳」なる名前を知ったのは高校生時代だと思う。図書館にあった岩波の吉川幸次郎・小川環樹監修「中国詩人選集」の『李商隠』。当時の僕は李賀がランボーで、李商隠はヴェルレエヌと勝手に決め付けていたので^^「ふ~ん、高橋和巳って少壮の学者がおるんだなぁ」くらいにしか思わなかった。今確かめてみると『李商隠』は1958年刊行、刊行当時高橋和巳は27歳(京都大学大学院博士課程在学中。翌年修了)である。いくら吉川の推挙があったとはいえ、院生が岩波から本を出すのですから、今にして思えばすごいことです。
やがて僕は大学進学のため1965年3月に上京。「朝日ジャーナル」に連載中の『邪宗門』(1965年1月~66年5月)の熱心な読者になった。そして、読んだ順は忘れたが『捨子物語』『悲の器』『憂欝なる党派』『日本の悪霊』『我が心は石にあらず』『堕落』『散華』『白く塗りたる墓』『黄昏の橋』といった小説群は刊行とほぼ同時に読み(ずいぶん多作家だが、10年足らずの作家活動である)、『文学の責任』『孤立無援の思想』『新しき長城』『孤立の憂愁の中で』『変革の思想を問う』『わが解体』『人間にとって』『自立の思想』などのエッセイ集もほぼ全部読んだ。
僕は生前の高橋に一度だけ会っている。あれは22歳の秋だったろうか。鬱屈した気持ちで帰省していた時のこと。今はない「富山市公会堂」での講演。苦悩教教祖とも揶揄された彼だが、それでも何度か笑いを呼ぶ発言もあったように思う。熱気の退潮した時代だったのだろう、聴衆は極めて少なかった。
高橋を矮小化するようで恐縮だが、僕が高橋に学んだことの一つは「権威・権力・強者・金持ちに対峙しうる思想を構築すること」である。今の自分の立場上、権威の威を借りてエバってみせることも、権力にすり寄らなければならないことも、強者におべんちゃらをこかなければならないことも、金持ちのヨイショをしなけらばならないことも、組織の一員として生きている以上何度もあるが、それでも一個人としての矜持は持ち続けたいと思う。
「健康で文化的な最低限度の生活」さえ営めない人が数多いるこの国でこんなことを書くと、「甘っちょろい!」「青臭い!」と言われるかもしれぬが、あちこち迷走した末の62歳の今の自分は、けっきょく、若き日の理想=「自由・平等・博愛」の実現を目指しているのかもしれない。

吉川や桑原武夫や白川静に愛され期待された学の水準(高橋が辻邦生に言ったそうだ、「京都ではな、学者は泣きながら勉強するんや」と)、小田実や小松左京らと競い合うように発表した創作群(小田実は弔辞「とむらいのことば」で「すべての気持をこめて、高橋和巳よ、ホナ、サイナラ。」と述べる)、孤立無援を恐れず対自化された思想の高み・思索の深み(「スターリンを疑い、レーニンを疑うことからやがてはマルクスをも疑うに到るだろう。仏法のためには釈迦をも斬る精神のほかに、しかし期待しうる何があるだろうか。」)、友人知人はもとより埴谷や寺田透や武田泰淳らに愛された人柄。内村剛介の言い方を借りれば、39歳で亡くなった高橋和巳はまさに「生き急いだ」人生ということになるのでしょうね。
今はもう高橋和巳は「過去の人」になってしまっているのだろうが、その運動体組織論も含めて、まだまだ読み継がれ語り継がれていく価値があるのではないだろうか。

若き日の夢往還す 邪宗門忌
語り合う友とてもなく 邪宗門忌
邪宗門忌 志の之くところ 未だ見ず
(「邪宗門忌」は一般通用の語ではなく、私の勝手な造語です。陳謝)
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by tiaokumura | 2011-08-31 10:11 | 思い出の本たち | Comments(2)

かつて松村謙三という政治家がいた

今年は松村謙三没後40年の年である。8月21日が松村の祥月命日。
昨日8月28日(日)、地元TV局のKNBが「けんそはん 松村謙三 没後40年の残光」を放映していた。気づくのが遅く番組後半3分の1くらいしか観られなかったのが残念。
この番組、「KNBふるさとスペシャル」シリーズで毎月最終日曜16:00~16:55の放送。去る5月29日には「にぎやか~白衣を脱いだ天使たちの闘い~」というタイトルで阪井由佳子さん(にぎやか)が取り上げれていた。阪井由佳子さんが番組中で「病院で死んだら裏口から出ていかんならんがよ。でもうちらんとこでは、みんなでこうして看取っていけるから幸せだちゃ」といった趣旨の発言をしていた。阪井さんところでは「かっぱ庵」で看取ることも起きるのですね。実ににぎやかな通夜で感心した。

『大辞林 第三版』に「しょうりき-まつたろう」はあるが「まつむら-けんぞう」はないので、『広辞苑 第六版』より「まつむら-けんぞう」を引用する(p2653・最下段)。
政治家。富山県生れ。早大卒。1928年の第1回普通選挙から64年の引退まで、公職追放中の4年間を除いて衆議院議員に連続当選。民政党・改進党・民主党・自民党に属し、厚相・文相・農相を歴任。第2次大戦後日中友好に尽力。(1883-1971)
念のために申しておきますが、記述中の「民主党」は保守合同前の政党「日本民主党」で今の民主党とは関係ありません。また広辞苑が間違っているわけではありませんが、松村の大臣歴は厚生大臣→農林大臣→文部大臣の順です。

松村の業績はいろいろあるが、本記事では3つに絞って紹介したい。
農地改革(農地解放)
松村は、アジア・太平洋戦争の敗戦処理内閣・東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣で厚生大臣、次の幣原(しではら)内閣で農林大臣。GHQの後押しもむろんあったのでしょうが、農相在任中に困難な農地改革に取り組んだ。わが家も当時は「地主」だったが、松村も福光(ふくみつ)の大地主。早稲田大学の卒業論文で農業の理想像を描いた松村、裕福な地主の松村なればこそ成し遂げえた戦後の民主化であった。そんな松村だったが、1946年に公職追放に遭う。
自民党総裁選出馬
第2次岸信介内閣は、1958年末に岸のタカ派姿勢に反発して池田勇人・三木武夫・灘尾弘吉の反主流派3閣僚が辞表を提出。しかし金と数で圧倒的に優る岸は、1959年の総裁選は楽勝と思われていた。そこに対抗馬として押されたのが清廉潔白の党人派・松村謙三。1月14日選挙、岸320票・松村166票。ダブルスコアではあったが、事前の予想を覆す大善戦であった。前回1957年は岸471票に対して松村はわずか2票だったのだから、岸の肝胆を大いに寒からしめた。
日中友好
当時の自民党政府は冷戦下の選択として中華民国(台湾)を中国として認めていた。従って1949年10月1日に成立した中華人民共和国とは国交がなかった。そんな中、松村は5回にわたって中国を訪問。周恩来らと日中のあるべき姿を模索した。政経分離の粘り強い交渉。TV番組中で紹介されていたが松村は交渉の場で「私は日本人だ。従って私の目の前で日本の首相をあしざまに言われるのは我慢できない」と言った。言うべきことはきちんと主張する-外交とはそういうものだろう。土下座外交とかおべんちゃらとかは外交ではない。やがて松村らの努力が実り、1962年、LT貿易開始。Lは中国側の廖承志、Tは日本側の高碕達之助の頭文字である。
5回目の訪中は老齢の松村には堪(こた)えたでしょうね。日中の不幸な関係を打破したいという使命感が松村を奮い立たせていたのでしょうね。松村は志半ばにして1971年8月21日逝去。築地本願寺での葬儀には周恩来からの花輪も飾られた。翌1972年9月25日、田中角栄が訪中。田中・周の両国首相の下で日中の国交が樹立した。周恩来の言った「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れてはならない」の「井戸を掘った人」には、宇都宮徳馬や西園寺公一らと共にもちろん松村謙三も含まれる。

今日、野田佳彦が民主党代表に。明日、首相に指名されるんでしょうね。海江田・小沢傀儡政権よりはマシなのでしょうが、また1年前後の短命なんでしょうかねぇ。トリビアねた^^ですが、野田の父親は富山県八尾(やつお)町の出身だそうです。
松村は「古き良き時代」の政治家といえばそれまでだが、昨今の政治家にかつて松村謙三という政治家がいたことを学習させたい。

参考:富山社会科教育研究会編『富山県を築いた人びと』(1985年11月初版 旺文社)

(8月30日・訂正)
記事中の「また広辞苑が間違っているわけではありませんが、松村の大臣歴は厚生大臣→農林大臣→文部大臣の順です。」は私の間違いでした。松村の大臣歴は、東久邇宮内閣で厚生大臣兼文部大臣、幣原内閣で農林大臣、第2次鳩山内閣で文部大臣。広辞苑の記述で正しい。ここにお詫びして訂正しておきます。
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by tiaokumura | 2011-08-29 16:29 | 富山 | Comments(2)

五七五(「癌日記」より)

江國滋(えくに・しげる1934-97)に見習ったわけではないが^^、入院中、「五七五」を作った。俳句とは呼べぬ代物だが、作句にあたって韻律と季語と俳諧味は尊重したつもり。
以下にまとめておく。日付はアップした記事の日付(作句日とは限らない)。まとめるにあたって、ブログ掲載時より「読みがな」を増やし、一部「自註」を付した。

6月22日
大患(たいかん)の身はさりながら蚊のかゆみ

6月25日
 おくのほそ道
六月二十七日 蕉翁いしのまき立ち われは手術室
(自註:松尾芭蕉は新暦6月27日に石巻を立っている。僕は石巻で4月10日にぷちボラ。)

6月28日
とほほわれ 六十四の梅雨 おむつかよ

7月9日
半夏生(はんげしょう) ナースの二の腕 なまめけり
(自註:半夏生は雑節の一つで新暦7月2日頃。)
 おならがバロメーター
梅雨空に放屁(ほうひ)三発、I Did It!
(自註:癌ではありませんが、東京駅で暴漢に襲われた浜口雄幸(はまぐち・おさち1870-1931)も確か術後の放屁が回復のバロメ-ターだった。)
窓枠が切り取っている真夏日や
 出アフリカならぬ出病院
われもまた ホモサピエンス せみを聴く
(自註:日本人もミトコンドリア・イブにDNAを発する。出アフリカを果たしたホモ・サピエンスはやがて日本列島にたどり着く。)

7月15日
 手術後3回目の入浴
わが姿 理科室標本 夏日射す
バスタブで屈葬(くっそう)真似てる夏の風呂
ゆらゆらり 骨皮(ほねかわ)筋右衛門(すじえもん) 散文の夏

7月22日
生きる意味問はるる夏を過ごしをり
思ひきや 点滴スタンド 夏の供(とも)
かくなれどもう二夏(ふたなつ)も生きばやな
夏の花 生老病死(しょうろうびょうし) うつしけり
生き生きて夏 死に至るは どの季節

7月26日
遠花火(とおはなび)がん患者にも届きけり
(自註:7月23日だったか、富山市水橋の花火大会。病院の食堂から見えた。)
現(うつ)し世(よ)が夢幻(ゆめまぼろし)の癌の夏
体内に邪悪が潜む夏の宵
夏の夜寄る辺なき身に抱き枕
葬列のイメージしきり夏深更
夏涼し 人の情けに ただ感謝

8月13日
爆と発。Hiroshima、Nagasaki、Fukushimaと。
原爆忌 我に語れる 何やある
退院し 大の字になる あつさかな
床ずれも 癌の名残りや 夏布団
褥瘡(じょくそう)が手書きで書ける夏の朝
(自註:「褥瘡」は床ずれの医学用語。EPAの看護師候補の国家試験で日本語の難しさの象徴として「褥瘡」がよく取り上げられる。)
過去現在 あれやこれやと 端居(はしい)かな
(自註:「端居」は夏に縁側で夕涼みすること。)
生きるとは 死ぬとは何か せみしぐれ
ラヴェンダー 汝(なんじ)の生命力(いのち) 羨まじ
ラヴェンダー 香(か)を手にうつし 顔をふく
アルプス席 いくたりありや 癌患者
(自註:「アルプス席」は甲子園球場のアルプススタンド。夏の高校野球、富山県の今年は新湊高校が出場した。)
快気祝いとは云えど解夏(げげ)無縁かな
(自註:「快気祝い」は見舞い返し。富山は半返しとか。「解夏」は「夏解(げあき)」とも。旧暦7月15日。従って秋の季語。)
照りかへし 半身(はんみ)で避ける 病み上がり
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by tiaokumura | 2011-08-28 15:48 | 癌日記 | Comments(4)

むのたけじ『希望は絶望のど真ん中に』(岩波新書)

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むのたけじ(むの・たけじ1915-。本名は武野武治)
『希望は絶望のど真ん中に』
2011年8月19日 第1刷
岩波書店(岩波新書)
700円+税

アップした写真『希望は絶望のど真ん中に』は、むのたけじ『戦争絶滅へ、人間復活へ-九三歳・ジャーナリストの発言』(写真右)に次ぐ岩波新書。前著では黒岩比佐子(くろいわ・ひさこ1958-2010)という才能あるインタビュアーが「93歳・ジャーナリスト」の発言を縦横無尽に引き出している。むのの黒岩への弔辞は黒岩のブログ「古書の森日記」のこちらで読むことができます。

当ブログ、「むのたけじ」で検索すると6件ヒットします。僕がむのを知ったのはもう半世紀近く前になる。高校の先生から教えられたのか(進学校で社共系の「進んだ」先生もいた)、あるいは大学進学後にクラスメートのH君(秋田出身)から教えられたのか、どちらか今は記憶が定かでない。『たいまつ十六年』(今は「岩波現代文庫」に入っている)・『詞集たいまつ-人間に関する断章604』あたりを20歳前後に読んでいると思う。戦後思想史の中で、僕にとっては「むのたけじ松田道雄(まつだ・みちお1908-98)・花森安治(はなもり・やすじ1911-78)」が同じ位置づけになる。3人の共通点は(僕の勘違いかもしれぬが)、「民衆の視点に立ち、女・こどもの力を信じ、現実主義者にしてロマンチスト」ということになる。

本書『希望は絶望のど真ん中に』の主題は
人類が作り出している現状の本質、世界情勢の土台にあるものをできるだけ明らかにして、私たちみんながその状況にどう立ち向かって生きていくかについて一個の材料を提供したい(p5)
であり、むのにとってジャーナリズムとは
民衆生活の朝夕の相談相手ですな。個体と全体をつなげる絆の大切な一本ですな。世の中の続発する動態についてその原因と過程と結果を明らかにして、さらに一つの結果が次の新しい原因となる筋道を明らかにする作業。これが何よりの任務です。(p6)
現在のジャーナリストでどれだけの人が「任務」を果たしているだろうか。

1940年8月、当時のむのは報知新聞社社会部記者で中国行きを命じられる。彼は内モンゴル地区に入り最前線を歩き回る中で、
中国の政府も民衆も日本国に屈伏して要求を聞き入れる日は決して来ない。その可能性はゼロよりゼロだ。つまり日本の政府・軍閥が中国に勝つ日は絶対にあり得ない、と。(p76)
確信する。そして、おそらくそこまでは多くの従軍記者や作家も似たような情勢分析を行ったのだろうが(むろんそのことをペンでは表せなかっただろうが)、むのがジャーナリストとして選んだ道は、
「真実であれ事実であれ、それをねじ曲げてウソを書いたり言ったりすることは、決してやらない。万一それをやらねばならぬことに身を置いたら、その時にはペンを砕いて捨て、口を閉ざして開かない。真実を真実と言えない世なら、まともな世に造り変えるため、お互いに命を大切にして皆で頑張っていくだけだ。無論おれもその一人として努力し続ける。では日常不断の仕事では、どのように心掛けるか。ホントをホントと言える範囲でホントを言い続けていく」。(p77)
むのの朝日入社は、今でいうヘッドハンティングみたいなことになる。給料の話(p82)は読んでて笑った^^。朝日新聞社には1940年12月から45年8月までの4年9か月の在籍になる。

本書「96歳・ジャーナリストの熱い書き下ろし」(帯より)の各章(序章~結章)のタイトルは順に
歴史の歩みは省略を許さない 現在を刺す七〇〇万年の歩み 農耕の中から何ゆえに戦争が? 人類の余命は四〇億年か四〇年か みんなの課題にみんなで取り組む 足元から世界を耕す
巻末に「むのたけじ・著書一覧」。本書のタイトル「希望は絶望のど真ん中に」は
あの敗戦時に日本国民が力を合わせて、自分らのやった戦争行為の一切をわが手で裁き、迷惑をかけたすべての人々にありったけの真心を込めて詫びて許しを請い、そして自分らの進路を自分らの力で開拓したら、物ごとの姿が二面であれ、もっと多面であれ、真相をハッキリと見て取ったに違いない。(略)絶望のど真ん中の、そのどん底にこそ、不滅の希望が輝いているのだ。それを知って体感すれば、人々のやれること、考えることに新しい知覚と活力が満ちて、物ごとを必ず豊かに実らせるに違いない。人類史を土台から組み替えるようなすさまじい平和運動を創造して戦争を絶滅させ始めたに違いない。(p25)
から来ているのでしょうね。むのが80歳で到達した「遅すぎた目覚め」(p25)である。

最近は何を読んでもつい「」のことが引っかかってくるが、むのは
(略)八五歳での胃がんが治った。九二歳での肺がんも治った。次は「心臓に水がたまって要注意」と主治医に言われたが、それもよくなりつつあるそうで、今は生後九七年目を歩きつつある。(p19)
とのことです。
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by tiaokumura | 2011-08-27 16:21 | | Comments(2)

ある癌患者(男性・64歳 胃癌ステージⅣ)、4つの不安

はじめに:ブロガーからのお断わり
誤解を招かないようにここでお断わりしておきますが、当ブログのカテゴリー「癌日記」は、あくまでも奥村一個人の体験記です。「癌=不治の病」「全ての癌=死に到る病」では決してありません。当ブログの「癌日記」がいたずらに恐怖心をあおることのないようにしたい。このことは、カテゴリー「癌日記」を立てた時に書いておくべきだったのですが、遅まきながらここでお断わりしておきます。
以下に述べる「4つの不安」もあくまでも奥村一個人の現在の率直な心境であり、これをもって癌患者に過剰一般化して適用されることのありませんように。


10年ほど前までは、癌を本人に告知すべきかどうか論が分かれるところもありましたが、今どきは本人への癌告知が普通になったんでしょうね。告知することで本人が病状をきちんと把握し闘病生活に向き合える・医療者側も治療に専念しやすい、といったメリットがあるんでしょうね。癌以外でもそうなんでしょうが、インフォームド・コンセント、セカンド・オピニオン、緩和ケアなどといった言葉もすっかり市民権を得たようですし、化学療法・放射線治療など癌の医療技術の進歩も目覚しいみたいです。医療現場でもよく使われる「生活の質(Quality of Life=QOL)」も癌患者には大切なんでしょうね。癌告知は時代の趨勢なんでしょうね。
ただどうでしょう、告知された本人のおおかたの想いは、1997年2月6日、江國滋が食道癌を告知された日に書き残しているように
あっというまの1日でもあり、生涯ではじめての長い長い1日でもあった。
残寒やこの俺がこの俺が癌

でしょうね。引用は、江國滋『おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒』(新潮文庫p23)より。
そして、闘病生活の中でやがては、乳癌の河野裕子が書き残しているように
身体が思うように動き、御飯がおいしく食べられるということ、これに優るものはない。健康でさえあれば、この世のことは何とかやって行ける。
といった心境になるのでしょうね。引用は、河野裕子・永田和宏『たとへば君 四十年の恋歌』(文藝春秋p179)より。

僕はこれで、6月27日の手術から約2か月、8月5日の退院から3週間になります。もうそろそろ通常の生活に復してもよさそうなものですが、まだ自宅でダラダラした生活(恥)。抗癌剤は、2クール目のTS1の服用2週間が過ぎ、今は休薬期間(2週間)です。来週9月2日(金)に病院に行き、血液検査後TS1の3クール目に入る予定です。
今日現在、いろいろ「不安」がありますが、大きくまとめると「食生活」「就労」「お金」「余命」の4つになるかなあ。もちろん4つは互いに連関してもいる。
極めて図式的になりますが、不安が臆病・弱気を引き寄せ、その反動としての攻撃性(周囲への八つ当たり)が牙を剥く。そのことに後悔しやがて己の卑小さに絶望する-癌患者の心理状態はそういった流れになるのかも。

食生活
入院先の病院の栄養管理科からもらった「術後の食事の進め方(めやす)」によると、「一日に食べたい量」は1500kcal。今は1日なんとかギリギリこれだけのカロリー摂取かなぁ。体重、退院時50キロを割ってたのですが、今は50キロ台です。退院してからやっと1キロ増加。
胃を全摘出したことが大きいのでしょうね。1回あたりの食事の量が限られている。急いで食べたり量を過ごすとダンピング症候群を起こす。そこへもってきての、抗癌剤による食欲不振の副作用。どうしてかわからないのですが、味覚も変わってきたみたい。以前はおいしいと思っていた食材・食品・調理法も口に合わなくなっている。周囲からは「ゼータク」と言われるかもしれませんが、自分、「おいしいものが食べたい!」って餓鬼道地獄におるんかも^^。
食生活がきちんとしないと体力がつかず社会復帰もままならない。食事でもう一つ心配は「外食」。今の状態じゃ、一人で外食、無理なんですね。だれか一緒に行って、1人分から分けてもらって食べる、なんてことになる。富山はどうかわかりませんが、ひょっとしたら大都会では、僕のような者向けのレストラン・食堂、あるかも。外食が無理となるといろいろと活動も制限されてきそう。
就労
僕は恵まれているほうなんでしょうね。勤務先の富山国際学院では「健康保険傷病手当支給」ってぇのの扱いになるみたい。僕は6月20日(入院日)から休業中で、7月分の給料が最初の適用月(学院は月末〆・翌月10日振込)。8月もそうなる予定。
入院中、朝日新聞のシリーズ「患者を生きる」は「がんと就労・読者編」(7月26日~8月3日・全8回)だった。「女性・36歳 同時性両側乳がん」の例を引用。
派遣元と派遣先の上司に手術前の抗がん剤治療で週1日休むが、仕事を続けたいと懇願しました。「休む分残業できますか」と言われ、退職せざるを得ませんでした。
治療が一段落して通院回数が減ったころ、ゼロからやり直そうと仕事を探しました。面接まで進んでも、がんの話をすると不採用になりました。病気のことを隠さなければ生きていけないと悟りました。

もう1例、「男性・50歳 カルノイド腫瘍」を引用。
上司は、毎日数時間残業が必要になる量の仕事を要求します。裁量労働制の給料は、残業が前提というのが上司の考えで、手術前のペースで働けないと出社されても困るそうです。(略)病欠期間が終われば、転職せざるを得ないと考えています。
とりわけ子育て世代・働き盛り・自営業にとっての突然の癌は極めて深刻。
「働き続けるためには、働く人も、企業も、社会も変わる必要があります」(桜井なおみキャンサー・ソリューションズ社長 乳癌)は正論なんでしょうが、実現はなかなか難しい。僕も含めた個々人がまずはがんばることでしょうね。
僕の仕事は日本語教師と学院長。スタッフの理解があるからといって、勤務先にいつまでも甘えるわけにはいかないでしょうね。就労については早めに結論を出さなければならない。
お金
僕の入院診療費は、6月(20日入院、27日手術)が11,9380円、7月が13,0657円、8月(5日退院)が4,7720円でした。6月・7月は「健康保険限度額適用認定」で安く(ってもワシにはけっこうな額ですが^^)なってるみたい。それによると、保険が適用される部分についての自己負担限度額があって、その計算式は
8,0100円+(医療費―26,7000円)×1%
です。
前述の朝日新聞「がんと就労・読者編」から「男性・60歳 慢性骨髄性白血病」の例を引用。
毎日治療薬のグリペックを服用しています。(略)ネックは薬代があまりに高額なこと。(略)今は会社の健康保険組合が負担をしてくれ、個人負担は1回2万円です。でも、昨年9月末に定年退職し、現在の継続勤務も来年10月には終了します。その後は、負担が一気に増える予定で、頭の痛い問題です。(略)負担の重さに耐えかねて、グリペックの服用をやめる患者さんもいるとか。
僕はもう無理ですが、癌が見つかる前に「がん保険」に入っておくのも有効でしょうね。入院時は上述の「健康保険限度額適用認定」でまだなんとかなりますが、通院とか抗癌剤などはがん保険があると助かるでしょうね。
再発・転移、そして余命
結局これが最大の不安でしょうね。体内に爆弾を抱えている状態。
「我や先、人や先」ではあるが、今の僕は割と「先」にいるのでしょうね^^。一方で、「自分以外はみんな死ぬ」とも思う。つまり自分が死んだ時は世界も終わる。自分は他人の死を見聞できるが自分の死は経験できない。
残された期間をどう生きるか。カッコ悪い生き方になるんでしょうね、自分は。
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by tiaokumura | 2011-08-26 19:18 | 癌日記 | Comments(6)

続・どうでもいいことかもしれませんが・・・

ご当地はいかがでしょうか、富山、ここのところ最高気温が30℃に行かない日が続いています。夜なんかは肌寒いくらい。鳴いているのは秋の虫でしょうね、季節は移ろいつつあるのでしょうね。
退院で心配されたのが猛暑。でもそれほどでもない。それにわが家は昔ながらの家で、兼好法師が言うように「夏をむねとして」造られているのでしょうね、家の中は涼しい。網戸にしておけば風も通り抜ける。クーラーも扇風機も不要です。
退院して思ったのですが、今年はがいない。一晩だけです、蚊がいたのは。それも蚊取り線香をつけるまでもなく、退散した。わが家だけの現象なんでしょうか、今夏の蚊。
以下、前記事の続きです。

その4:数字の3桁区切り
①12,345,678,900
皆さんは、日本語ですぐ読めますか。英語ではどうですか。
②123,4567,8900
こちらはどうですか。日本語ですぐ読めますか。英語ではどうですか。
一目瞭然というか、日本語表記は②、英語表記は①が良いってこと、はっきりわかりますよね。
123億4567万8900をなんでわざわざ英語式に12,345,678,900って書くんでしょうね。私が携わっている日本語教育の教材でも圧倒的に下から3桁区切りが優勢。現実がそうだから日本語教材もそれを取り入れているのでしょうが、学生には「下から4桁に区切って読むと読みやすい」と指導してます。だって日本語の数字はそういう体系になってるんですもんね。数字の3桁区切りって、世界標準に合わせたのか、あるいは多くのカタカナ語がそうであるように英語式の区切り方のほうが「カッコいい」ってことで表記してるんでしょうかねえ。
日本語の数字表記は下から4桁区切りにするべきです。

その5:本の定価表示
僕は、新聞・雑誌などの本の紹介、よく読んでいます。本の広告・書評は、僕にとっての図書購入の重要な情報源でもある。以前は「これから出る本」なども参考にしてましたが、今は朝日新聞・北日本新聞・岩波のPR誌「図書」が主。で、たまに、なんですが、せっかく紹介されている本で定価が書いてない場合がある。「買おうかな」と思った本、僕の場合はいくらでも買えるわけじゃないから、定価が気になる。その情報がないのは困る。そんなときはAmazonなんかで調べます。「そんくらい自分で調べろよ」と言われるかもしれませんが、本の紹介にあたっては定価も表示してあるとありがたいなあ。ちなみに当ブログでは現在購入可能な本については全て定価を書いています。

その6:なでしこジャパンの露出
病人の楽しみの一つはテレビでしょうね。入院中はベッドの横にTVがあって、プリペイドカードで視聴できる。1枚1000円で約13時間20分、視聴可能だそうです。約45日間の入院でカードを5枚使ったから、1日平均1.5時間以上はテレビを見てたんでしょうね。よう見たもんです(照)。
なでしこジャパン、準決勝進出あたりから一気にフィーバーでしたね。そして国民栄誉賞までの間、あちこちのテレビに出演したり取り上げられたり。プライベート情報もかなり流されたんでしょうね。今やプレーヤーってよりタレントか芸人扱いも。オリンピック予選間近になり、さすがにテレビ出演は減ったみたいですが、大丈夫なんでしょうかねぇ、ロンドンへの切符。

その7:メールの書き方
皆さんもそうでしょうが、手紙やハガキ,書かなくなりましたね。最近は努めてハガキを書くようにしてますが(美術や映画のポストカード、結構収集してるんです)、公私ともやはり「メール」が多い。メールにもいろいろマナーがありますが、今回は文面について。
例えば、
富山の奥村です。ずーっと電話が通じず心配いたしております。昨日K宅にTELしたところ、避難されているのではないかとのことでした。心よりご無事を祈っております。停電でPCもご覧になれないのでしょうが、可能になったらこちらのメールに短くていいですから近況をお知らせ下さい。小生は遠く離れておりますが、皆さま、何なりとご希望をお申し出ください。
といった文面、どうでしょう。ここでは文章の巧拙より読みやすさを問題にしてるのですが。こういうベタ打ちの文面、目にしますが、僕は不賛成。僕だったら、
富山の奥村です。
ずーっと電話が通じず心配いたしております。
昨日K宅にTELしたところ、
避難されているのではないか
とのことでした。
心よりご無事を祈っております。
停電でPCもご覧になれないのでしょうが、
可能になったらこちらのメールに短くていいですから近況をお知らせ下さい。
小生は遠く離れておりますが、
皆さま、何なりとご希望をお申し出ください。
って文面にします。読みやすさ優先です。こういう打ち方、数年前に野田尚史先生(大阪府立大学教授)のMLに参加してたときに学習しました。皆さんもメールの読みやすさ,工夫なさってみてください。ただし、ケータイメールはベタ打ちのほうが読みやすいです。画面が小さいですから。
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by tiaokumura | 2011-08-23 13:35 | このブログのこと | Comments(6)

どうでもいいことかもしれませんが・・・

その1:内閣総理大臣
8月18日、なでしこジャパン国民栄誉賞授与。このことに異議はない。僕も入院中にオンタイムで決勝戦観てました。決着後、ケータイからブログ記事も送りました。
地元紙の北日本新聞8月19日付によると
首相は「(略)」とたたえ、伸子夫人と連名の手紙を一人一人に渡した。
そうである。「なんで夫人と連名の手紙?」ってのが僕の素朴な疑問。内閣総理大臣たる公職で栄誉賞を授与するのであって、菅直人はたまたま巡り合わせでそうなったに過ぎない。愛妻家か恐妻家か知らないが、なんで夫人と連名の手紙を渡したのだろうか。公私混同もいいところである。それとも伸子夫人が内閣の要職を占めているのだろうか。菅のこういうところが「市民運動家上がり」「団塊の世代」の甘さでもあるのでしょうね。死に体の菅なので夫婦連名を諌めるブレーンもいなかったのでしょうね。あるいは誰も連名の手紙を知らなかったか。
もらったなでしこジャパンも「ありがた迷惑」だったでしょうね。人気のある宰相からならともかく^^、「早く辞めろ辞めろ」の首相ですもんね。ましてその奥さんなんて「関係ない」です。
化粧筆はいいプレゼントだったんでしょうね。白鳳堂しか知りませんでしたが、広島県熊野町ってこれで有名になるんでしょうね。
北日本新聞には記念撮影写真も載ってるのですが、半分近くがおっさん^^。参加できなかった選手の代理の父親とかチームスタッフもいるからなんでしょうかねえ。
上野の女子ソフトも結局そうでしたが、女子サッカーも一過性のブームで終わらないといいですネ。政府、支援しそうなこと言ってますが、財源、大丈夫なんだろうか。オリンピック予選もけっこうキツそう。

その2:高校野球
高校野球、購読してるのが朝日新聞だからよけいそうなんでしょうけど、相変わらずすごい報道量ですね。以前は負けたチームの「感動物語」がメインだったような気がしますが、最近は勝ったチームもかなりの量で「感動物語」を伝えている。箱根駅伝と並んで高校野球はアマチュアスポーツ・人気トップなので、どうしてもこうなるんでしょうね。筋書きのないドラマ・青春の汗と涙・郷土代表-高校野球は日本人の心性にピッタリ来るんでしょうね。僕は池田とか蓑島の頃はけっこう夢中でしたが、今はあんまり。朝日新聞、高校野球期間中は読む時間少なくて済んでるかも(激爆)。
で、どうでもいいことかもしれませんが、高校野球のTV中継のことを書きたい。中継中に例えば、
まもなく3時ですが、3時のニュースはこの回の奥村高校の攻撃が終わったあと放送します。
とかいう案内が流れる。これ、前から疑問に思ってた。定時のTVニュース(ラジオもそうですが)って待ち構えている人、かなりいるんじゃないかなあ。「あ、そろそろ3時だ。TV(ラジオ)をつけよう」と思ってつけたら、野球中継中。奥村高校の攻撃がなかなか終わらずニュースは結局3:08から、ってこともある。同じ団体ボールスポーツでも、サッカーやバスケは時間制ゲームで野球やバレーは不定時間制ゲームなんでそういうことが起きるのだろうけど、ここは定時の3時になったら中継を中断してニュースを流してほしい。相撲中継でも「この取組が終わったあと・・・」は止めてニュースを流すべきだと思う。
高校野球と云えば、西武の菊池雄星、完投で3勝目を挙げましたね。彼のプロ初勝利は当ブログ6月13日付で記事にしてます。8月31日に盛岡で登板がありそうで、楽しみです。

その3:元号
「明治25年創業の奥村商店が百周年を迎えたのは平成何年でしょう」「大正10年生まれで平成3年没、享年は?」-こういう質問に即答えられる人って、すごい。ボク、全然ダメです。
日本語教育ではほぼ西暦主流ですがたまに元号も。僕個人は昭和50年代前半頃から西暦にしてます。元号も一つの文化だから全否定はしないし使いたい人は使えばいいのですが、公的な文書などは西暦(か西暦+元号)にしたほうがいいと思う。
富山国際学院の学生が大学の出願書類を書くときに元号で書かなければならない場合がある。昭和への換算は西暦下2桁から25を引けば済みますが、平成への換算って何か便利な計算ってあるんだろうか。留学生ももう平成生まれが主流です。
ここからは余談ですが、元号だけではなく旧暦→新暦などで重宝してるのが昔買った『歴史読本・臨時増刊 万有こよみ百科』(新人物往来社)。旧暦からの連想で言うと、伝統年中行事を①旧暦の月日だけそのまま新暦に移す、②旧暦を1か月ずらして新暦にあてはめる、③旧暦の月日をそのままにする、の3つのパターンがありそうですが、③が本来の正しい姿なんでしょうね。中国や韓国・ベトナムの春節がそれです。

昨日、2か月ぶりにを運転。今日、6月18日(土)以来の富山国際学院。学院には1時間くらいしかいませんでしたが、少しずつ社会復帰訓練中、かなあ。
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by tiaokumura | 2011-08-19 19:30 | このブログのこと | Comments(4)

アジア・太平洋戦争下 流行歌・書籍・映画-後編-

昨日の夜、途中からですがBSプレミアム「兵士たちの戦争」を観ました。3夜連続のようで、この日は「特攻」がテーマ。「特攻生みの親」(異説もある)の大西瀧治郎(おおにし・たきじろう1891-1945)は、特攻までしなければならない戦況を天皇が知り戦争終結に結び付けたかったそうです。知らなかった。しかし天皇は最初の神風特別攻撃隊に対して、さすがにそこまでやらねばならないことに驚いたが、散華した若者たちを賛美するに留まった。大西は昭和20年8月16日割腹自殺。自決ばかりが責任の取りかたではないが、今の政治家や大企業幹部の無責任さを思うと、大西にしても山本五十六(やまもと・いそろく1884-1943)にしても栗林忠道(くりばやし・ただみち1891-1945)にしても山下奉文(やました・ともゆき1891-1946)にしても、かつてのリーダーは常日頃から身の処し方を念頭に置いて生きていたのだなあと思う。笠間書院から「コレクション日本歌人選」というシリーズが出ていて、その第Ⅰ期に『辞世の歌』(2011年4月25日初版第1刷 1200円+税)がある。アジア・太平洋戦争関係では、栗林・山本・山下や安藤輝三・栗原安秀、東條英機らの「辞世」が収められている。
同じBSプレミアムで昨夜から6夜連続で映画『人間の條件』も。原作は五味川純平のベストセラーで、監督は小林正樹。キャスティングが超豪華で、主な出演者(第1部)だけでも、仲代達矢(梶)、新珠三千代(梶の妻・美千子)、淡島千景(慰安婦・金東福)、山村聡(梶の同僚・沖島)、宮口精二(中国人捕虜・王享立)、安倍徹(渡合軍曹)。他に、有馬稲子・佐田啓二・石浜朗・三島雅夫・小沢栄太郎・山茶花究・南原伸二ら。1970年前後、オールナイト映画というと、『昭和残侠伝』『網走番外地』『宮本武蔵』『人生劇場』などと並んで『人間の條件』も定番だった。ただ僕は今回TVで第1部を観て、あの当時結局観てなかったんじゃないかと思う。いろんなシーンの記憶は少しあるのですが。
BSプレミアム、入院中の最後の週も観てました。周恩来のドキュメンタリ(姪や甥、スタッフの証言など)、ブルース・リー(李小龍)の映画三本。

以下、前記事の続きです。
1940(昭和15)年
できごと:第2次近衛文麿内閣 北部仏印に進駐 日独伊3国同盟 大政翼賛会発会
歌:暁に祈る 荒鷲の歌 紀元二千六百年 隣組 湖畔の宿 蘇州夜曲
書籍:太田慶一『太田伍長の陣中手記』 アンドレ=モーロア著・高野弥一郎訳『フランス敗れたり』 松田道雄『結核』
映画:内田吐夢『歴史』 伏木修『支那の夜』 豊田四郎『小島の春』 阿部豊『燃ゆる大空』 島耕二『風の又三郎』 吉村公三郎『西住戦車長伝』
1941(昭和16)年
できごと:日ソ中立条約 南部仏印進駐 東条内閣成立 ハワイ真珠湾空襲 閣議で戦争の名称を支那事変を含めて大東亜戦争とすることを決定
歌:めんこい小馬 長崎物語 そうだその意気 大政翼賛の歌
書籍:草場栄『ノロ高地』 『ムッソリーニ全集』(改造社)
映画:清水宏『みかへりの塔』 小津安二郎『戸田家の兄妹』 山本嘉次郎『馬』 稲垣宏『江戸最後の日』
1942(昭和17)年
できごと:翼賛選挙 ミッドウェー海戦
歌:月月火水木金金 空の神兵 湯島の白梅 新雪 勘太郎月夜
書籍:高田保馬『民族耐乏』 大川周明『米英東亜侵略史』 富田常雄『姿三四郎』
映画:小津安二郎『父ありき』 戦記映画『マレー戦記』『空の神兵』『ビルマ戦記』など
1943(昭和18)年
できごと:ガダルカナル島撤退開始
歌:加藤隼戦闘隊 お使いは自転車に乗って
書籍:日曜学校局編『新日曜学校讃美歌集』 奥村喜和男『尊王攘夷の血戦』 清閑寺健『江田島』
映画:黒沢明『姿三四郎』 木下恵介『花咲く港』 稲垣浩『無法松の一生』
1944(昭和19)年
できごと:マリアナ沖海戦 東条内閣総辞職 レイテ沖海戦
歌:若鷲の歌 同期の桜 ラバウル小唄 ラバウル海軍航空隊
書籍:陸軍報道部編『必勝国民読本』『勝たずして何の我等ぞ』 松村秀逸『宿敵米英を撃て』
映画:戦記映画『あの旗を撃て』『加藤隼戦闘隊』『撃沈』『陸軍』など 増産映画『一番美しく』『激流』など 島津保次郎『日常の戦ひ』 稲垣浩『狼火は上海に揚る』
1945(昭和20)年~戦後も含む~
できごと:東京大空襲 米軍、沖縄本島に上陸 広島に原子爆弾投下 長崎に原子爆弾投下 ソ連、対日宣戦布告 ポツダム宣言受諾 戦争終結の詔書を放送 降伏文書に調印 マッカーサー、幣原首相に憲法の自由主義化および人権確保の5大改革を口頭で要求
歌:お山の杉の子 同期の桜 勝利の日まで
書籍:森正蔵『旋風二十年』 室伏高信『新生の書』 穂積重遠『戦後女性訓』
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by tiaokumura | 2011-08-16 15:00 | このブログのこと | Comments(8)

アジア・太平洋戦争下 流行歌・書籍・映画-前編-

アジア・太平洋戦争敗戦から今日で66年。今や、私もその一人だが「戦争を知らない子どもたち」が日本国民の大多数を占めている。あの戦争下、おそらく一般庶民が夢中になったであろう流行歌・書籍・映画の略年表を作ってみた。出典は岩波書店編集部『近代日本総合年表』(1968年11月25日 第1版第1刷 岩波書店)。同書は「政治」「経済・産業・技術」「社会」「学術・教育・思想」「芸術」「国外」の6カテゴリーを立て、1853(嘉永5・6)年~1967(昭和42)年をカヴァーしている。今は増補版で入手可か。
以下、「できごと」は同書「政治」の太字事項、「」・「書籍」は同書「社会」末尾の「この年」から、「映画」は同書「芸術」末尾の「この年」から、それぞれ抄出した(一部、例外あり)。

1931(昭和6)年
できごと:満州事変
歌:酒は涙か溜息か 丘を越えて 女給の歌 巴里の屋根の下
書籍:金子文子『何が私をかうさせたか』 鈴木文治『労働運動二十年』
映画:五所平之助『マダムと女房』 小津安二郎『東京の合唱』 田坂具隆『心の日月』
1932(昭和7)年
できごと:満州国建国 5.15事件
歌:影を慕ひて 涙の渡り鳥
書籍:谷口雅春『生命の実相』
映画:稲垣浩『弥太郎笠』 五所平之助『天国の恋』 島津保次郎『嵐の中の処女』
1933(昭和8)年
できごと:国際連盟脱退
歌:島の娘 サーカスの唄 十九の春
書籍:山川菊栄『女性五十講』
映画:五所平之助『伊豆の踊子』 溝口健二『滝の白糸』 山中貞雄『盤獄の一生』 小津安二郎『出来ごころ』
1934(昭和9)年
歌:国境の町 赤城の子守唄 鹿児島おはら節 会津磐梯山
書籍:『プルターク英雄伝』 大竹博吉『新露西亜風土記』 『新聞集成明治編年史』
1935(昭和10)年
歌:二人は若い 野崎小唄
書籍:小林杜人『転向者の思想と生活』 矢田挿雲『太閤記』 『心に太陽を持て』『君たちはどう生きるか』等16冊(日本少国民文庫)
1936(昭和11)年
できごと:2.26事件 日独防共協定
歌:忘れちゃいやよ ああそれなのに 東京ラプソディー 男の純情
書籍:東洋経済新報社『会社四季報』 武藤貞一『戦争』 吉川英治『宮本武蔵』
映画:内田吐夢『人生劇場・青春編』 島津保次郎『家族会儀』 伊丹万作『赤西蠣太』
1937(昭和12)年
できごと:第1次近衛文麿内閣 盧溝橋で日中両軍衝突(日中戦争の発端) 南京占領
歌:青い背広で 人生劇場 軍国の母 進軍の歌 露営の歌
書籍:新居格・深沢正策訳『パアル=バック代表選集』 三角寛『山窩血笑記』
映画:熊谷久虎『蒼氓』 ファンク『新しき土』(日独合作) 内田吐夢『裸の町』 田坂具隆『真実一路』 山中貞雄『人情紙風船』 清水宏『風の中の子供』 豊田四郎『若い人』
1938(昭和13)年
できごと:国家総動員法公布 
歌:別れのブルース 支那の夜 旅の夜風 満州娘 麦と兵隊 日の丸行進曲
書籍:ミッチェル作・大久保康雄訳『風と共に去りぬ』 エーヴ=キュリー著・川口篤ら訳『キュリー夫人伝』 ヴィットコップ編・高橋健二訳『ドイツ戦没学生の手紙』 林芙美子『戦線』
映画:熊谷久虎『阿部一族』 豊田四郎『泣虫小僧』 阿部豊『太陽の子』 渋谷実『母と子』 田坂具隆『路傍の石』 山本嘉次郎『綴方教室』 野村浩将『愛染かつら』 豊田四郎『鶯』
1939(昭和14)年
歌:父よあなたは強かった 空の勇士 太平洋行進曲 上海の花売娘
書籍:徳富蘇峰『昭和国民読本』 スメドレー著・町田竹次郎訳『第八路軍従軍記』 天野貞祐『学生に与ふる書』
映画:清水宏『子供の四季』 島津保次郎『兄とその妹』 熊谷久虎『上海陸戦隊』 田坂具隆『土と兵隊』 溝口健二『残菊物語』 吉村公三郎『暖流』
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by tiaokumura | 2011-08-15 14:45 | このブログのこと | Comments(3)

8月5日(金)午後、退院しました

しょう来、がんになりませんように
福島の小2女児が七夕短冊に書いた願いである(朝日新聞2011年7月31日付「天声人語」に引用)。私の癌はいわば自業自得・自己責任であるが、「福島小2女児たち」にとって原発人災は不条理以外の何物でもない。3.11以降の状況が正しく記録され保存され、「しょう来」の立法・行政・司法が「記録が残っていない」「因果関係が認められない」「国民の許容すべき範囲である」などといった門前払い・責任逃れをしないことを切に願う。
被災地のことでは、東海テレビ大文字もひどいことをしたものだ。東海テレビのケースは、現在のTVは芸のない芸人たちの楽屋落ち・学芸会が主力番組だから、東海テレビ1局だけのことではなく、これからもあちこちで起こりそうだ。よりがっかりしたのは大文字の京都人。京都は好きな都市の一つであるだけに余計に残念。古都京都の文化・歴史の一大汚点として残るだろう。東海テレビも大文字(五山送り火)もその後善後策を講じているようだが、「覆水盆に返らず」である。
あれから5か月が過ぎたが、被災地の多くは依然として日常を取り戻すまでに至っていない。政治の貧困である。ここまでにしておきながら、国会議員で給料返上を申し出る者が一人もいないのは驚きである。我々一般庶民は、被災地の方々のためにたとえ直接間接にあれこれできなくても、せめて被災地の足を引っ張ったり侮辱したりする行為は避けたいものである。残念ながら人類のこれまでの歴史において、無知が偏見を生み偏見が差別につながる事例に事欠かない。私のような無力な者も、被災地の方々に対する最低限のマナーは心得ておきたい。

皆さまにさんざんご心配していただいておきながらご報告が大変遅れてしまいましたが、
8月5日(金)午後、退院しました
この場をお借りして、病院スタッフの皆さま並びに当ブログご訪問者の皆さまに厚く御礼申し上げます。
ただ私の場合は「退院=完治」ではなく、この後の残りの人生は、「癌と生きる・癌を生きる」とでもいうことになるでしょうか。
退院日の8月5日からは抗がん剤の2クール目も開始。今クールは、TS1を2週服用・1週休みでシスプラチン(前クールではTS1服用8日目に点滴注射)はなし。Tドクご推奨の栄養機能食品・プロシュア(prosure)というのを1日1パック(240mLで300kcal)飲んでいます。食欲不振が相変わらず最大の悩みです。
主治医のTドクの「退院時リハビリテーション指導」には
自分の体力、体調中心に考えて下さい。食欲もなく調子の悪い時はTS1は休薬して下さい。
食事はなんでも試してみて下さい。良く噛んで時間をかけて食べることが基本です。
とある。さらに「ご自宅での基本的・応用的動作能力や社会復帰への回復を図る訓練について」には
体位訓練、起座又は離床訓練、起立訓練、食事訓練、排泄訓練、生活適応訓練、基本的対人関係訓練、家屋の適切な改造、患者の介助方法、在宅保健福祉サービスに関する情報提供など
が挙げられている。退院してこれで1週間以上経ちましたが、社会復帰・職場復帰はまだ時間がかかりそうです。自分、これまで知らず知らずのうちに「強者の論理」で生きてきたんでしょうね。弱者になって初めてわかったこともいくつかある。英語のlifeに生命・人生・生活の3つの意味があるのもなんとなく納得できたかなぁ。

今日8月13日(土)、久しぶりに本屋さんに。退院したら読もう=退院の自分へのプレゼント^^と思ってた本の、
伊集院静『いねむり先生』(2011年5月18日第3刷 集英社 1600円+税)
河野裕子・永田和宏『たとへば君 四十年の恋歌』(2011年8月5日第2刷 文藝春秋 1400円+税)
津村節子『紅梅』(2011年7月31日第1刷 文藝春秋 1143円+税)
を買いました。伊集院はともかく、『たとへば君』『紅梅』はこうして癌患者にならなかったらたぶん買わなかった本でしょうね。

爆と発。Hiroshima、Nagasaki、Fukushimaと。
原爆忌 我に語れる 何やある
退院し 大の字になる あつさかな
床ずれも 癌の名残りや 夏布団
褥瘡(じょくそう)が手書きで書ける夏の朝
過去現在 あれやこれやと 端居(はしい)かな
生きるとは 死ぬとは何か せみしぐれ
ラヴェンダー 汝の生命力(いのち) 羨まじ
ラヴェンダー 香(か)を手にうつし 顔をふく
アルプス席 いくたりありや 癌患者
快気祝いとは云えど解夏(げげ)無縁かな
照りかへし 半身で避ける 病み上がり
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by tiaokumura | 2011-08-13 16:11 | 癌日記 | Comments(14)