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檜書店で購入

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(4月1日夜・記)
4回連続の和テイストな記事になります。
富山“観世塾”」、これで2回受講し、このあと年末までの毎月第4土曜日、富山国際学院の仕事が入らない限り受講しようと思っています。
ネットで探したら檜書店が一番観世流関係揃っているみたいです。檜書店は右にリンクしておきました。写真の下段は
大成版 観世流初心謡本
の全3冊(上中下)。富山“観世塾”でお隣になっていろいろご教示いただいている富﨑茂樹先達(なにごとにも先達はあらまほしきものなれ、ですね^^)が、この本お薦めだとおっしゃっていました。
「上」の巻頭には二十四世観世左近師の昭和14(1939)年の
予 夙に流儀謡本の大成に志し、これが實現を記すること年ありと雖も・・・
で始まる序文が付されている。「翼賛」なんて語が出てくるのは時代を反映してるのでしょうか。
『大成版 観世流初心謡本』は二十四世観世左近の編著、六世観世銕之丞・十二世梅若万三郎の参與で成った本。「謡曲須知」(「須知」は「すべからく知るべし」、Must Knowって意味でしょうね)がついていて、富﨑さんもおっしゃってたんですが、これは初心者にはとても便利みたいです。ただボクは初心者以前なので(恥)、「須知」にある「謡曲とは何か」「謡曲の術語」、いずれもチンプンカンプン。ま、少しずつ理解していくしかないでしょうね。
「上」には鶴亀・橋弁慶・吉野天人・大仏供養・土蜘蛛、「中」には竹生島・経正・羽衣・小袖曽我・猩々、「下」には菊慈童・田村・東北・富士太鼓・紅葉狩がそれぞれ所収。各曲に解題・曲趣・節譜解説・舞台鑑賞・辞解などが付く。(表記は常用漢字に拠った)
「大成版」、こないだ買った袖珍本と比べると活字が大きいので私のようなシニアにはピッタシです^^。ただその分値段が(汗)。

写真の上段は「熊野」と「忠度」。4月25日の出題予定3曲が「竹生島」「熊野」「忠度」なので購入。

富山国際学院の卒業式のあとのパーティで僕は、ここ数年詩吟や森山直太朗「さくら」などをご披露してる。来春は「高砂」か「千秋楽」か、をご披露できたらすばらしいでしょうね(って自分勝手な願い。聴き手迷惑以外のなにものでもないかも^^)。
今シニア向けの音楽教室が盛んだそうで1曲限定で楽器を習うこともできるとか。まず無理な話ですが、卒業式のパーティで、フォークギターで「なごり雪」、あるいは、ピアノで「ショパン ノクターン 第2番」(映画『愛情物語』でジャズヴァージョンで使われていた曲)なんか弾けたら、卒業生ちょービックリでしょうね(爆)。
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by tiaokumura | 2009-03-31 21:52 | 謡を習う | Comments(0)

柴田力弥師と

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第2回 江戸の座敷芸を観る会 夜桜や~」続き。
12:20頃、旧・老舗料亭の玄関を入る。階段を上り廊下伝いに会場の大広間に。新聞記事にあったように赤い漆喰・欅の一本柱・屏風・着物展示。30畳ほどの部屋の前方に座る。どうも足が痛い(恥)。始まる頃には100人ほどになったでしょうか。女性がやや多目。女性の中には着物姿も10人以上。男女とも中高年が圧倒的。ごくまれに30代男性・20代女性。芸が芸だけに未成年者はいませんでした(激爆)。

1時前、村田祥一さん(そば・うどん処「村田家」ご主人、65歳)がご挨拶。
村田さんの受験勉強のときの思い出。向かいが料亭の離れか何かで都々逸をBGMに受験勉強したそうな(爆)。高校の古典もおかげでずいぶん成績が良かったそうな(爆)。村田さんのお気に入りの都々逸も何句かご紹介。高杉晋作作と伝えられる
三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい
は、僕も好きな都々逸です。

村田さんのご挨拶のあと、柴田力弥さんが芸者姿でご登場。
お話あれやこれや+お座敷芸。
力弥さんは四谷生まれ。三木のり平がおじだそうです。子役で映画・芝居に出演。花柳章太郎に習ったこともある。越中おわら節との出会いは、昭和30年「一本刀土俵入り」(長谷川伸の名作。劇中に「越中おわら節」が歌われる)上演の下準備として昭和29年に八尾に来た時。柴田師匠はたぶん僕と同じくらいの年齢でしょうね。僕もその頃八尾の親戚に遊びに行ってるのでひょっとしてどこぞですれ違ってるかもしれない。師匠は現在八尾の青根というところにご在住。
師匠は「毒舌家」って括りになるのでしょうね、あの人・この人ぶった斬り(激爆)。ただそこには師匠の論理・美学がきちっとあって、つまり正鵠を射ている。お師匠さんにご迷惑がかかると申し訳ないのでここには明記しませんが^^、落語家のあの人もコケにされてました。「保存会」にも手厳しい批判。師匠が日大三高時代に交遊のあった双子にも鉄槌^^。僕は師匠と同年代のせいか(あるいは師匠もAB型?)、師匠の数々の批判、ほとんど納得のいくものばかりでした。
大島紬のこと、着物は身分制で発達したこと、羽織の効用、飲む・打つ・買うで三遊亭、おわら節の歴史など、目から鱗な話も多数。

お座敷芸の方は都々逸・端唄・博多節など、あるいは踊り。季節柄、
梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳なよなよ風次第
も当然ありました。梅絡みでお蔦・主税の話も。端唄の一つでは幡随院長兵衛の例の湯殿でのセリフ入り。
興に乗ってきた頃からはいわゆるバレ歌・バレ句になるんでしょうね、オン・パレード(激爆)。思わせぶりに始まって最後にストンと落す、あるいはその逆-言語芸術ですよね。でも、文句の意味がわからないかあるいはカマトトぶっているのか、聴衆からあまり反応がない場面もありました。まぁ僕は人の3倍くらいうなづいたり笑い転げたりしていましたけど。いいストレス解消になったかも^^。
最後のテープ伴奏付き踊り「おそうじ」は、狂言「附子」とちょっと似てて、お局さまから見ちゃいけないと言われていた箱の中を見てしまう。その箱の中は・・・たぶんあなたのご想像の通りです(謎爆)。

僕たちが子どもの頃にはまだ「幇間」は死語ではなかった。柳家三亀松師や悠玄亭玉介師もご健在だった。今日のお座敷芸は幇間だけではないのだが、おそらくほとんど絶滅寸前の伝統文化になるんでしょうね。伝統文化を育ててやろうという旦那衆もいないし、伝統文化が「わかる」のは(色街育ちでなければ)僕ら世代が下限でしょうね。柴田師匠の後継者もどうやらいないみたい。芸道修業に耐えられる若者なんていませんもんね。
師匠がおっしゃった中で特に印象に残ったのが「今は『にほリカ人』が多い」「もっと日本に帰りましょう」。

終了後、これまたワガママ言って、お師匠さんの膝枕で写真を撮っていただきました(照)。こんなリクエストしたんはボクだけでした(激爆)。こうして膝枕してもらって三味線弾き語りが聞けたら-男冥利、これに勝るものなし、かも(爆)。

柴田力弥師匠
村田祥一様・村田ゑみ様
本日はありがとうございました!
第3回を楽しみにしております。


昨日の、今日のお座敷芸と僕にとっては2日続きの「」の日でした。
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by tiaokumura | 2009-03-29 14:41 | 富山 | Comments(0)

花街情緒を楽しむ

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本日、「第2回 江戸の座敷芸を観る会 夜桜や~」に参加。

11:10頃自宅を出る。産業道路を走り東町の村田家駐車場に11:25頃車を入れる。
今回の催しは北日本新聞3月26日付の記事で知った。「花街情緒 楽しんで」「富山・東町の村田さん 29日 座敷芸鑑賞会」という見出し。記事の最後に電話番号があったので早速電話。ところがもういっぱいで参加は無理というつれない^^お返事。電話口の向こうの村田ゑみさん(「村田家」のおかみさん。記事にある年齢は60歳で、ご主人との写真つき)に「そこをなんとか」とお願いしたら「一人だけなら」ということでメンバーに入れていただいた。当日は昼食を村田家で済ませた後、向かいの旧老舗料亭で鑑賞会という段取り。「お酒も飲みたい」と申し出たら、苦笑まじりで断られました(激爆)。
そんな次第で28日昼前に村田家に入る。名前を名乗りおかみさんに「写真で見るよりおきれいです」と申し述べる。こういうの、ワシって世慣れとるかも(嘘爆)。ぞうすい+山かけそば。実はこれもボクのワガママ。本当は1品しか食しちゃいけないのですが、「お金を出してもいいから両方食べたい」って駄々をこねたら(爆)、おかみさん、今度も苦笑いされながら大目に見ていただきました。
食事を済ませ、向かいに入るのもまだ早すぎるので、道路でうろちょろ。写真は会場の「老舗料亭」前で村田家の息子さんに撮っていただきました。

皆さんのところにも「新地」ってあることでしょうね。全国的には曾根崎新地や北・飛田・中村・松島なんてのが有名かも。富山市東町には東新地があった。
富山では明治5(1872)年に桜木町が誕生。ここは今でも富山の歓楽街です。そして明治28(1895)年に誕生したのが東新地。日清戦争の頃ですね。桜木町が芸妓がいて旦那衆や社長や文化人が対象だったのに対して、こちら東新地は娼妓がいて一般庶民が対象だった-私の理解を図式化するとこうなるでしょうか。間違ってたらごめんなさい。「芸は売っても体は売らぬ」桜木町vs「体は売っても心は売らぬ」東新地-どちらの地にも女性の心意気が息づいていたことでしょうね。所詮男というものは女の掌(たなごころ)の中で遊ばされていただけなのかもしれませんね。
子どもの頃、「あずましんち」(「あずましんちゅ(う)」とか発音してたかもしれない)は例の4文字言葉と同じで、口に出してはいけないタブー語だった。っても、悪ガキたち、意味もわからんまま、秘密めいて口に出していましたけど(激爆)。
昭和32(1957)年4月、いわゆる「売春防止法」が成立、「赤線の灯は消えた」。僕は小学校高学年だったでしょうか。従って東新地で童貞を捨てることもなく(激爆)、それどころか大人たちの秘密基地・東新地に一歩も足を踏み入れることもありませんでした。

苦界に身を沈めた多くの女性たちを思うと(廃娼運動も自由民権派やキリスト教系、婦人運動家たちによって行われたが実効を得られぬままだった)、浮かれているわが身が恥ずかしいのですが、でもやはりここ東新地には「文化」があったのだと、それは断言できる。
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by tiaokumura | 2009-03-29 12:09 | 富山 | Comments(4)

富山“観世塾”を受講

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本日、平成21年富山“観世塾”を受講しました。
11:45頃家を出、途中41号線沿いの「一龍」で昼食。初めて入るお店。中華そば+中華ぞうすい。腕のいい若い店主で、きっと評判のいいお店でしょう。スープは僕のような年齢の者には濃すぎだが、イマドキのラーメンはこうなんでしょうね。12:40頃一龍を出てそこから約15分で富山能楽堂着。

2回目ともなると(塾自体は今年3回目の開催)、さすが方向オンチのボクもあまり迷わずお部屋に辿り着けた^^。途中、松下覚・富山松友会会長にお会いしご挨拶。入室して小西弘通先生(観世流シテ方 富山松友会顧問)にご挨拶。受付で2000円払う。
前回(2月28日)同様、富﨑茂樹さんの横に陣取る。総勢20人くらいでしょうか。男性がやや多目。県内女性にも謡を嗜む方ってけっこういらっしゃるんですね。意外です。

始めに小西先生が声の出し方などをレクチャー。前回はこういうのなかった。ひょっとしてボクのようなド素人・超初心者のためになさったのかもしれませんね。「高砂」の
四海波静かにて國も治まる時つ風枝を鳴らさぬ御代なれや・・・
を教材に記号の意味・節まわしなどをご説明。先生によると、遠くの山あるいは川の対岸にいる人に向って大きい声で呼ぶ感じで、のど仏を下に引いて声を出す、そうです。う~ん、難しい。他の方々には当たり前のご説明なのでしょうが、ボクにはとほほです(恥)。
今回も隣りの富﨑さんにあれやこれや教えていただく。富﨑さんは謡歴5年以上かと思ったら、な・な~んと、昨年10月から始められたそうです。わずか半年足らずでここまでになられるとはオドロキです。もともと筋がおよろしいのか、あるいは熱心なお稽古の賜物か。おそらくその両方でしょうね。僕も早く富﨑先輩(40代か?)の現在に達したい。3年以上はかかるでしょうね、僕の場合。

今回の出題曲は「嵐山」「羽衣」「藤戸」。ネットで事前に謡本を購入(檜書店)。ただ予算をケチって袖珍本にしたので^^、見づらかった。
今月の出題曲3曲を終わって、「四海波静かにて・・・」、更に前回同様「千秋楽」で終了。
後片付け。前回はそういうのがあるのを知らずに先に帰ってしまってました(汗)。準備もたぶん皆さんでやってらっしゃるようなので、次回からは早めに来ておこう。
小西弘通先生にお礼のご挨拶。
右上の写真は富山能楽堂能舞台にて。ちょうど居合わせた作業服姿の方に撮っていただきました。なお、写真撮影及び写真ブログ掲載は小西弘通先生の許可を得ています。

次回は4月25日「竹生島」「熊野」「忠度」。仕事さえ入らなければまた受講しようと思う。
小西弘通先生・松下覚会長・富﨑茂樹さま・皆様
本日はありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。

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by tiaokumura | 2009-03-28 15:45 | 謡を習う | Comments(0)

友がみなわれよりえらく見ゆる・・・

3月は人事異動の月でもあるのでしょうね。
富山県副知事植出耕一君富山県議会副議長高平公嗣君富山県水墨美術館長中西彰君がそれぞれ就任されることを新聞報道で知った。3君は僕の高校時代の同期生です。

僕は中学時代にハンドボール部に入ってて、Y中学の植出君とは県体などで何度か対戦した。主将でジャンプシュートが得意だった僕(照)は彼らのチームに連勝したように思うが、それは記憶のでっち上げなんかもしれません、なんせ45年以上昔のことなもんで^^。彼とは進学先の富山高校で再会した。クラスは一緒になったことはない。高校にハンドボール部がなかったので3年生のときに植出君たちと部を創った。もし今も富山高校にハンドボール部があったとしたら、それは僕たちが創ったのです。進学校にあってそういう部を創るのは非常なエネルギーが要ったことを後輩諸君は肝に銘じておいていただきたい(嘘爆)。植出君は早稲田大に進学した。僕は彼とは進学大学は異なったが1年生の時に高田馬場の下宿に橋本君と同居していて、近くにあった植出君たちのアパートにマージャンを打ちにときどき通った。マージャンは彼のほうが遥かに強かったように記憶する。僕は2年生になって引っ越したので、その後は全くお付き合いはない。30年ほど前に僕は東京から富山にUターンして、それから彼が富山県庁に勤め出世街道を驀進しているのを新聞報道でときたま目にした。今回は石井隆一富山県知事のご指名で副知事である。
高平君とは高校時代に1度くらい同級になっているかもしれない。父君(故人)は参議院議員。彼は東京の私大に進学、東京で何度か会っているかもしれない。僕の記憶では前川清バリの歌を歌ったように思うがどうだろうか。僕の次姉が高平君の地元に嫁いでいて、姉から彼の話をときどき聞いた。県議会議員に立候補し当選、富山市の老舗割烹の娘さんと結婚など。僕は県議会議員選挙区が異なるので応援したことはない。何度か激戦を制して、今では副議長に就く経歴になったのでしょうね。
中西君とは中学から同期。中学入学時に出会った。僕の小学校時代の担任が城野義雄先生(故人。このブログでも何度か城野先生のことを取り上げています。素晴らしい先生でした)で、中西君の一番上のお兄さんにあたられる。そんなご縁があって中西君とは中学入学とほぼ同時に友だち付き合いさせていただいた。その後疎遠になったが、僕が富山にUターンして間もなく、彼が僕の家から割と近くの富山東高校で教師をやっているということを人づてに聞き、勤務先の高校を訪ねた。その後かなり経ってから、関口進先生(富山高校長などをご歴任。僕の2代前の富山国際学院長)の写真展を妻と観に行ったおり、偶然彼と出会ったこともある。昨年、中学同期会が立山山麓のペンションであったとき、同室で泊まった。中西君は高校長などを歴任し、今回の水墨美術館長就任である。2代前の同館長は僕の東京教育大学時代の同級生の山下君になる。

3君とも、苦労はもちろんあったことでしょうが、順調に人生を歩んでこられたのでしょうね。それぞれの新しいポストで全力を尽くされんことを切に願う。お三方はいずれも富山県の重要な公人としての職なので、世のため・人のため、思う存分その能力を発揮していただきたい。それだけの結果が出せる方々である。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

石川啄木(1886-1912)の『一握の砂』所収歌。啄木の結婚は1905年で1908年上京、『一握の砂』は1910年刊行。掲出歌は啄木22歳頃の作になるのでしょうか。偶然ですが、啄木の妻は僕の妻と同名です。
1行目の嫉妬や絶望や閉塞感が2行目「花」・3行目「妻」によっていくらか癒される-そんなふうな解釈でいいのでしょうね。いや、通り一遍すぎる解釈か。
僕はもう62歳で植出耕一君・高平公嗣君・中西彰君に嫉妬心を感じるような年頃でもないし、「他人は他人、自分は自分」だし、花を買ってしたしむ妻もいないし、ぐうたら人生を送ってきた僕より他人が「えらい」のは当然だし、何よりも3君は「友」でもないのですが、3君のことを考えながら啄木の名歌がふと脳裏をよぎりました。
蛇足ですが上掲歌、僕は「友がみなわれよりえらく見ゆる日/花を買ひ来て/妻としたしむ」と覚えていました。啄木の花を買うことさえままならぬ貧乏生活を考えて「」と思い込んでたのでしょうね、たぶん。
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by tiaokumura | 2009-03-27 20:37 | 富山 | Comments(0)

あれから6年です

「もう」なのか「まだ」なのか2003年3月25日から6年目。日曜日に7回忌を済ませた。
2000年夏の夫婦二人っきりでのパリ旅行、2002年11月から最期までの約100回の夜を緩和ケア病棟の個室のサイドベッドで過ごしたこと-この2つを除けば女房孝行のできない男だった。

承元の法難に始まり吉崎御坊・一向一揆など、北陸一帯は約800年の浄土真宗の法統を継ぐ地と言えるであろう。富山は「真宗王国」と称せられることが多い。人は死んだら無に帰するという信条の私ではあるが、真宗門徒の末席に位置させていただいている。
「門前の小僧」には遥かに及ばない身だが、それでも物心ついたころから
きみょうむりょうじゅにょらいなむふかしぎこう
とか
しょうにんいちりゅうのごかんげのおもむきはしんじんをもってほんとせられそうろう
とか
いっさいせけんてんにんあしゅらとうもんぶつしょせつ
とか
にょらいだいひのおんどくはみをこにしてもしゃすべし
とか
がんにしくどくびょうどうせいっさいおうじょうあみだきょう
など「意味」もわからぬままに「音」として慣れ親しんできた(上記のかな部分は記憶にある音を頼りに私が復元した。従って正確ではないこと、ご寛恕のほどを)。富山生まれ・富山育ちの方には私と似たような宗教環境にある方が多いでしょうね。
私の心のどこかにとりわけ強く残り続けているのが、「われやさきひとやさき」「あしたにはこうがんありてゆうべにははっこつとなれる」が出てくる蓮如上人(1415-99)「白骨の御文章」。小学校低学年頃まではそのリズム・イントネーション・プロミネンスの妙に感応し、やがてはそこで謳われている「無常観」にある種の恐さを感じたものだが、「他人の死」を何度か経験して今この年になってみると、自分には死を迎える心の準備が必要なのだと思う。
このようなブログに載せるのは憚るべきなのかもしれないが、祥月命日にあたり掲出させていただく。
なお、当ブログには20代・10代・日本語非母語話者の方もアクセスされるので、読み仮名は多目に付させていただきました(読み仮名は現代仮名遣いにした)。

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。さればいまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。われや先(さき)、人や先(さき)、今日(きょう)ともしらず、明日(あす)ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑ(すえ)の露(つゆ)よりもしげしといへり。
されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李(とうり)のよそほひを失ひぬるときは、六親(ろくしん)眷属(けんぞく)あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐(かい)あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半(よわ)の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少(ろうしょう)不定(ふじょう)のさかひなれば、たれの人もはやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)をふかくたのみまゐらせて(まいらせて)、念仏(ねんぶつ)申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
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by tiaokumura | 2009-03-25 20:00 | 追悼 | Comments(0)

伊勢正三&イルカ「なごり雪」(YouTube)


僕は1970年代、ふだんは東京三越本店近くの「パルム」でコックをして、スキーシーズンになると八方の「ハイランドロッヂ」で働いていた。
12月中旬、コクテール堂のバンに荷物を満載し大畑さんの運転で八方名木山ゲレンデにあるハイランドロッヂに向う。途中山梨でほうとう鍋を食べたり松本三河屋で馬刺しを食べたり。安房峠がまだ難所だった時代のことである。
ハイランドロッヂではコックやマネージャーをやった。スキーシーズン中は大学生やOLらのバイトが延べ40人くらいはいたか。男は地下1階の通称「タコ部屋」、女は2階の通称「女郎部屋」(今だったら性差別かセクハラで訴えられちゃうでしょうね^^。あの頃はまだのどかな時代だった)で寝起きする。梁山泊みたいなハイランドロッヂ、僕の知らない武勇談や恋愛もずいぶんあったみたい。お金に余裕があるとベルプレ・白い小屋・タンクローなどに通ったなぁ。僕が3回恋をし3回失恋したハイランドロッヂ時代・・・。

ハイランドロッヂをやめてから約30年経った今。アオちゃんはミヤジマさん、ブチュはコマとそれぞれ結婚。少年マドカは長野で有機農業を営み結婚し離婚し再婚し今ではすっかりいいパパ、ミンミンは今も八方在住でワイスホルンのおやじ、ケンジは下北沢でカフェカナン、ポパイは吉祥寺でフレンチのオーナーシェフ。ひょうひょうとしたイクオはヨシミと結婚してけっこうリッチな生活、クジラは環境教育では日本の第一人者、僕の鼻をモデルにしたトルソーを作ってくれたムラさんは鎌倉在住の彫刻家。マー坊は出世街道まっしぐらみたく、ミトはんは京都だろうか。エミリー・オジイチャン・アサノ・チャボ・チャー・アサヒ・クラタたちはどうしてるだろう。あの頃しょっちゅう通った鯉屋さんでは、今もエイちゃんがおいしいお蕎麦を打っていることだろう。ほんやら洞の早川さんとのご縁でハイランドロッヂで友部正人のライブをやったのも懐かしい思い出。早川さんの妹のパセリさんは東京でご活躍中。残念ながらタロベエは故人。
久保田四郎先輩とは今も年賀状でのお付き合いをしていただいている。しょっちゅう渋谷や銀座や新宿を飲み歩き、今でも上京のたびに会いたいと思っている大畑さんなのだけれど、完全に音信不通。僕たちが畏怖し尊敬していた林玄社長は一昨年亡くなられた。1周忌にはハイランドロッヂの仲間有志と多磨霊園に墓参した。
ニックネームが「センセイ」だった僕は、瓢箪から駒じゃないけど本当に「先生」になっている^^。

コーヒーやカレーがメインメニューの店にあって正月3が日に100万円超の売上げだったのだから、あの当時のチョー人気店でもあったハイランドロッヂ。そこにはたくさんの思い出に残る歌があった。りりィと山崎ハコが僕には一番なのだけれど、イルカの「なごり雪」も思い出の名曲。夜、1Fの石炭ストーブを囲み、あれはポパイかミンミンかマドカあたりがギターを弾いてたのだろうか、数々の歌を歌った。その中でも最もリクエストの多かった曲の1曲になる伊勢正三作詞作曲「なごり雪」。今朝の朝日新聞「うたの旅人」はこの曲でした(先週は「フランシーヌの場合」)。
1974年発表、75年にイルカがカヴァーして大ヒット。40代・50代そして60代前半の方には忘れられない名曲でしょうね。
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by tiaokumura | 2009-03-21 11:19 | 音楽 | Comments(4)

僕は学院長一年生

3月下旬、新年度の入社式・入学式・入園式を控え日本全国フレッシャーズのワクワク&ドキドキ真っ盛りの時季でしょうね。還暦過ぎのワタクシも実は「フレッシャーズ」の一人(照)。僕は富山国際学院3代目学院長に就任します。富山国際学院の現学院長の岸井みつよさんの送別会は23日夜に行います。思えば僕がトップになるのは、遥か昔、高校2年生の時に富山県高等学校陸上競技選手権とかで走り高跳びで優勝して以来実に45年ぶり(激爆)。「せいぜいNo.2がやっとな人生」を送ってきた者としては不安も多いが、関口進先生岸井みつよさん→僕へとバトンタッチされる「富山国際学院長」職、次の方へバトンタッチできるまで全うしたい。

富山国際学院長としての務めの第1の義務は何と言っても「富山国際学院生の学院への満足度アップ」でしょうね。
今週は仕事で魚津・富山県庁に行き、学院内では中国・カザフスタン・ネパール・パキスタンなどの方と会い、国際電話で中国・バングラデシュなどと交信、メールはブラジル・中国・ベトナム・イギリス・スリランカ・ネパールなどとやり取り。富山「国際」学院の名に恥じない日本語学校です、うちんとこは。学院内部生には就学生・聴講生・プライベート・インテンシブ・短期留学生などがあり、外部授業もいくつか引き受けています。そういう全ての学院生(日本語教育ではよく「日本語学習者」という言い方をしますが、僕はこの言い方が好きじゃないのでここでは「学院生」としています)の「顧客満足度」を最高レベルに持っていけるよう、スタッフ一同努力し続けたい。

第2の義務は「スタッフが働きやすい環境作り」である。私と共に働いていただくスタッフは14名。富山国際学院での勤務歴で言うと、先輩3人・同期ゼロ・後輩11人です。
待遇面は他の日本語学校にさほど劣らないと思うが、給料・ボーナスは可能な限り出してその労に報いたい。日本語学校の中にはしょっちゅう教師の入れ替わりがある学校もあるやに聞くが、幸い学院は定着率が高い(日本一かも^^)。辞めていただいた方も過去にはあるが、ご主人の転勤でやめるケースがほとんどです。日本語教育能力検定試験合格者が15名中13名(87%)であることも、学院の自慢。また、年少者からビジネス日本語までさまざまな日本語教育現場に対応できるスタッフが揃っていることも自慢。
小さな日本語学校なので就学生約60名・聴講生など約40名計100名くらいが一年間の学院生と少ないが、国籍で言うと10以上になる多様な学院生。彼ら・彼女らの日本語学習に学院スタッフが最善を尽くせるよう、給与面・自己研鑽面・チームワーク面などでより良い環境作りに励みたい。
家事・介護・子育て・通学・ボランティアなどそれぞれが日本語教育以外の活動も行っているので、学院は自然に「ワーク・シェアリング」になる。互いに支え合い・助け合って「日本語教師」をやっていきたい。

まだ他にも学院長としての義務がいくつもあるが、ここでもう一つだけ挙げるとしたら「後継者の養成」であろう。トップに立つと言うことは後は「引退」しかないことを意味する。在職中にバトンタッチする相手を見つけなければならない。完全ジジイなボクなんで^^のんびり後継者を探してる暇はないでしょうね。僕には引退後の夢や楽しみがいくつかあるので(照)、「引退」即「死」にならんようにせんと(激爆)。

僕は、元学院長の関口進先生のような教育者としての見識も乏しく、前学院長の岸井みつよさんのような心技体も備わっていないが、富山国際学院の灯を消さぬよう粉骨砕身したい。不安を数え上げててもしょうがないですもんね。
これからは孤独な決定・最終責任者としてのけじめが必要なことが圧倒的に多くなるが、幸い僕には学院内外に相談できる方々が何人もおられる。頼れるところは甘えさせてもらおう(照)。

学院長になったら、富山駅前でぶざまなヨッパはまずいじゃろうなぁ(爆)。運転中は制限速度を守り黄信号で停車する。コンビニでアブない本の立ち読みはしない(爆)。この年になっていきなりマジメ人間にはなれんじゃろうけんど、富山国際学院の恥になるようなことだけはせんでおこうと思います。

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり 道元禅師
人生で一番忙しいステージを迎えるが、上掲歌のような「ゆとり」が少しでも持てるように生きたい。
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by tiaokumura | 2009-03-20 20:27 | 僕は学院長1年生 | Comments(7)

公立高校受験に失敗した君に

15歳(か14歳)の君が、たぶん検索エンジンを使ってだと思うけどこのブログにアクセスしてくれたことを、62歳半の僕はとても光栄に思う。君のおじいさんよりちょっと若いくらいの年齢かなぁ、僕は(照)。僕は去年の3月まで学習塾をやっていて、今は1994年から働いている富山国際学院という日本語学校で外国人に日本語を教えています。まぁ、僕の人生なんてどうでもいいけどね(汗)。
下の記事は、2006年3月16日にこのブログに投稿した文章のほぼ全文です。あれから3年経ってるので今ではピント外れなこともあるし、富山県の受験生向けの文章なんで君にピッタシなことが書いてないかもしれないけど、このブログを訪問してくれた君に読んでもらえると嬉しい。


僕がこうしてPCに向かっている今、君は暗い部屋で泣いているかな。泣き疲れて夕食も食べずに眠っているころかな。ひょっとしたら「受験生」ってことで禁じられてたTVゲームに熱中。あるいは第7巻まででストップしてた『NANA』第8巻から14巻まで今夜一気読み。
数字って残酷だ、君は昼ごろ思ったことだろうね。「受験番号がない!」「まさか」「ウソだっ」。一方あちこちで「やった~」「おめでとう」「受かった~」の声がいくつも。しょんぼりと自転車に乗って帰宅。「結果わかったらすぐケータイに教えてね」と親に言われてたけど、それどころじゃない。落ちてたのは「他人」じゃなくてこの「自分」なんだもんね。リセットできるもんならリセットして、3月8日に、いやもっと前かな、時間を戻したい。
何が違ってたんだろう、不合格の君と合格の彼ら・彼女ら。同じ高校・学科を受けたのだから学力はだいたい同じなはず、ほんのちょっとの差なんだよね。社会の三種の神器がわからなかった、国語の課題作文、まさか詩が出るなんて、理科で苦手な電流が出た、英作文書けなかった、数学で時間配分失敗など。学校の先生が悪い、親の遺伝、塾行ったけど効果なかった、なんてのも出てくるかも。不合格って現実はしっかりあるけど、敗因は自分でも特定できないかもね。それに、敗因がわかったところでどうなるもんでもない。「合格したAさん・B君・・・と自分はどこが違ってるんだ!」と叫びたいくらいだろうね。
突然だけど、イチロー。去年4割打つんじゃないかと騒がれた。野球興味ない人はわからないだろうけど、4割ってすごいことなんだ。結局4割は実現しなかったけど、たとえ4割打ったとしても残りの6割は言わば「失敗」とも言える。君のひいひいおじいさんくらいになるかなぁ、昔「双葉山(ふたばやま)」という今の朝青龍の何倍も強い横綱がいて、69連勝。69回勝ち続けたんだぜ。すっごいね。でも「永久に」勝ち続ける=成功し続けるなんて無理、彼も人間なんだから。
そう、僕が言いたいのは、だれだって何回も「失敗」するってこと、人間だから
パパやママは君以上に落ち込んでるだろうから(大人ってけっこう引きずるんだよね、こういうの)明日の朝ご飯、たくさん食べて安心させてあげてごらん。君が明るいと家族もほっとできる。明るいフリしてるうちに本当に明るくなるってこともある。『NANA』15巻まだ出ないみたいだけど、まもなくTVアニメ始まるそうだ。それを楽しむ。絢香の「I believe」、僕は今ハマってるんだけど(照)、君もきっと好きになれる曲。他にも、僕の4分の1くらいの年齢の若い君なんだから、世の中にはたくさん楽しいこと・おもしろいこと、ある。
それでも、何をしてても「不合格」の3文字ふっと浮かんでくる。これからの長い人生のどこかで「自分は県立高校受験に失敗した」ってのをひょいと思い出す。「事実」を消すことなんてできないんだけど、でも君の4倍の年齢の僕は言いたい。「試験に落ちたこと」それは確かに「不幸」だけど、「試験に落ちたことが不幸だとず~っと思い続けること」はもっともっと「不幸」だ。
未知の君がこのブログ見ることは永遠にないかもしれないけど、以上ちょっと書いてみた。
じゃあね。僕が長生きできたら、いつかどこかで未来の君に会えるかもしれないね(^^)。
-2006年3月16日「7189人の一人になれなかった君に


2009年春に公立高校受験に失敗した君。
最後まで読んでくれてありがとう!

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by tiaokumura | 2009-03-18 20:03 | このブログのこと | Comments(0)

ほんの1年ほど前の気持ちを再確認できた今日3月17日です

今日は県立高校合格発表の日。僕は25年くらいずーっと奥村学習塾をやっていたので、毎年この日は富山県庁に県下全高校の合格名簿を閲覧に通っていた。だが、昨年3月閉塾し、今年は塾生の高校受験者はゼロ。では僕は県立高校合格発表と無縁になったかと言うとそうではなく、昨年12月の富山国際学院・高校進学説明会に参加した外国籍の子どもたちの受験結果が出る日であった。結果は残酷の2文字。一番その責を負うべきは私に間違いないのだが、あらゆる光が消えたわけではないので、今回は心に悔し涙を流しつつもリベンジしようと思う。日本は先進国中で「外国籍の子どもたち」に最も冷たい国であるのは確かだが、worse tomorrowよりbetter tomorrowになるよう非力ではあるがまた頑張ってみたい。そして、たとえ僕が生きている間は芳しい成果が出なくても、理解者や支援者や指導者を増やし続けておきたい、後に続く人たちが無駄な努力をしなくてもいいように。
しょんぼりと帰宅していつものようにかねごん先生のブログをご訪問してビックリした。僕の1年ほど前の記事の一部が転載されているではないか! 「そっか、こういう記事、確かに書いてたなぁ」と思い起こした。この1年、今日もそうだったが、多忙な日々を過ごしていて、ほんの1年ほど前(only one year ago)でももう遥か3年ほど前のような感覚なんですね、僕。かねごん先生のおかげで前段落に書いたような気持ちになれ、かねごん先生に感謝申し上げたい。
非常に長くなりますが、以下2008年3月11日の記事全文を再掲し(現時点で書き直したほうがいい箇所もありますが、そのまま載せます)、決意を新たにしたい。

この間読売新聞の「セカンドライフ」で柳沢亨之記者の取材を受けてて、どうも自分、自身がどんな人生を送ってきたのか、よう思い出せなんだ(恥&汗)。1965年春に東京教育大学入学のためにふるさと富山を出た。そこから逆算していって、そこまでの人生はだいたい時系列で他人にお話できる。でも、大学入学後「何をしたか」は思い出せるのだけれど、それが「いつ」ということになると記憶が(核爆)。そして更にアホなことに、では何年に富山にUターンしたか、正確な年がパッと出て来ず、長男誕生が1980年11月だから、そうなると結婚はその前の年(僕は「おめでた婚」じゃありませんので^^)で、遡っていくと1977年夏になるのかなぁ、Uターンは。夏だったってことは、暑い中マドカとミンミン(二人とも僕の年下の友人)に国分寺で引越し手伝ってもらった記憶が根拠。
富山にUターンしてまもなく、一つ就職試験を受けた。たぶん「事務職」で求人若干名に対して百人くらい受験に来てた。試験のとき、隣の僕より若い女性は鉛筆の音も軽やかにどんどん解答していた。彼女、きっと頭の中にそろばんが入っててそれでどんどん計算してたんでしょうね。ボクはと言えば、帳簿のことなんか全然わからん。必死で筆算、筆算、また筆算^^。結果はもちろん不合格。ボクの人生で数少ない不合格(嘘爆)。就職第2幕では、イタイイタイ病の患者さんのために尽力された萩野医院がある地域を、おじと一緒に車に乗っていた。その地区の県議に菓子折りを持って就職依頼。それも実らなかった。第3幕は、これまたおじと一緒に職安2階にいる。塾講師の職があって、でも僕は大卒学歴がないので難しいと職員の人に言われて、「まぁ、そこを何とか」とおじが言う。で、「じゃぁ、紹介だけでもしますから」と職員氏。それが「(株)進研」。進研ゼミとは無関係な会社で、静岡に本社がある通信添削の会社。今はもうなくなってると思う。富山市五番町にあった同社のビルを訪ねる。そこで、今でも年賀状のやりとりは続いている島支社長に会う。「○日に試験します。科目は中学の英数国です」と島支社長。う~ん、試験! 今だったらどうってことないんですが、あの当時は、ブランクが大きい。大学時代ずいぶん家庭教師もしたし、サークルで「学校」もやった。でも、それからかなりの月日が経っている。帰途、書店に立ち寄り、中学の問題集何冊か買う。今にして思えばずいぶんラッキーな「入社試験」だった。けっこう覚えてるもんなんですね、水泳やスキーや自転車みたいに、時間がかなり経っていても長期記憶になってたんでしょう、中学英数国の試験、パスしました。Iさんっていう東京教育大卒の人がいたのも良かったのかもしれない。
(株)進研では、数学・国語・社会あたりを教えたかなぁ。入社2年目に節子と出会い結婚。そしてその翌年になるかなぁ、独立して奥村学習塾を開設。長男の誕生は会社の昼礼の時にTELが入った記憶があるから、独立は1982年になるか。今にして思えばずいぶん思い切った「冒険」をしたものだと思う。独立後のはっきりとした見通しも立ってなく、妻子を路頭に迷わせる可能性があったのだから。でも僕の人生はときどき「ラッキー」としか言いようがない運にめぐり合うことがある。「塾ブーム」もあったんでしょうね、ずっと続けることができた。もちろん辛いこと・いやなこと・落ち込むこと・苦しいことなども数多たびあったけど、それはどんな職業も同じ。
入塾生は圧倒的に「口コミ」で、きょうだいやいとこなども多く、小規模な塾なので、募集にはあまり苦労しないで済んだ。これまでに双子が3組、3人きょうだいも数組あった。驚いたことに最近は、かつての塾生が父となり母となりわが子を入塾させたいと言ってくる。道理で自分、ジジイになったはずです(激爆)。
富山や富山中部に進学した塾生もいたが、自分としてはあくまで「補習塾」のつもりで、「来るものは拒まず、去るものは追わず」。学校で居場所がなかったり、先生にマークされてたりする塾生にいい結果が出ると、ひとまずの安堵感と口には出さないけれど「ざまぁみろ、学校」などと尊大な気持ちになった(爆)。学校の先生もご苦労多いのは確かなのだけれど、塾で教えてる人はよく言われると思うけど、塾生が「塾のほうが楽しい・わかりやすい」「先生、うちの学校の先生になればいいのに」「あ、わたし、やっとわかった!」などと言ってくれると、月謝の分がある程度還元できたかなとちょっぴり安心する。いつだったか、中学一年生で掛け算の7の段を覚え間違っていた塾生がいた。彼のその「学習ミス」は、何年間にわたって学校の先生も親も気づかないままだった。そういう子どもは今日本全国で何万人と再生産されてるのかもしれない。学校の先生方はボクなんかより「頭が良すぎる」ため、学力がない子の状況や気持ちが汲み取れない/理解できないのだろう。お忙しいとは思うが、学校の先生方には「教える」ことにもっと熱心になっていただきたい。

塾は、お金をいただく以上何と言っても「実績」が大事だと思う。うちの塾は「富山市内で費用が一番かからない塾」を目指していたので、法外な月謝は取っていないつもりだが、それでも「安い」とは決して言えない額。その額さえ出せず塾に通わせられないご家庭もあるだろう。塾は「タダ」で教えているのでないから、対費用効果が求められる。簡単に言えば「高校進学実績」である。ただし、一流高校に何人合格したか、ではなく、下のほうの学力の子どもたちをどこまで底上げでき志望の高校に合格させられたか、である。
塾での指導結果がはっきり出る県立高校合格発表の日は、朝からピリピリしている。そんな自分を家族に見せたくないが、しかたがない、塾主宰者の宿命である。塾生全員の受験校を回っている時間はないので、県庁の教育指導課に12:20頃行く。12時半になると県内全県立高校の合格名簿が閲覧できるのだ。何年か前までは名前、今は受験番号。合格者には県庁内からTELして「おめでとう」を言う。そして、そこからが塾主宰者として1年で最もつらい時間。落ちた塾生の家を訪問するのである。全員合格の年はそれで家に帰ってビールを飲めば済む(照)。でもそんな年は四半世紀で10回くらいしかなかった。あとの約15回は1人か2人、不合格。彼または彼女の家から少し離れた場所で車を停める。家の前に立ち深呼吸数回。玄関を開ける。おばあちゃんが出てらっしゃるときもあるし(富山県は兼業主婦が日本一とかで、お母さんがその時間にご在宅はめったにない)、本人が出てくるときもある。会った瞬間に照れ笑いする塾生もいるし、怒った表情の塾生もいるが、ほとんどの生徒が泣く。顔を見合わせたとたんに泣く子もいるし、少し話している内に涙声になる子、帰り際に泣き出す子、玄関先まで僕を見送った後閉めた玄関からすすり泣きの声が伝わる子・・・。そんな時、「もう塾はやめよう」とか「いっそのこと『俺が落ちたのはお前のせいだ』と殴りかかってきてくれたほうがいいのに」「返せるものなら、月謝を返してあげたい」とか思う。そんな気持ちになりながらも、四半世紀も塾を続けて来られたのは何故だろう。家族の生活がかかってる、ってのがもちろん一番だが、自分のような者でも子どもたちに役立ってるという自負、かなぁ。落ちた子には、私立の入学式を調べ、お祝いの手紙とささやかな入学祝いを贈る。塾からそういうのもらって、逆に県立に落ちたことをまた思い出させるのではとも思うけど、つらい現実は現実として認め新しい出発をしてほしい気持ちからである。

塾は、「必要悪」とまでは言わないがあくまでも「学校教育の補完」だと思う。公教育がきちんと成立していれば、塾なんかいらないのである。だが、これまでもこれからも「進学塾」も「補習塾」も続くだろう。
塾がなくなる日は永遠に来ないのかもしれないが、奥村学習塾は昨日で終了した。日本語学校と学習塾の両立はもう無理になったのである。昨夜はウィスキーの水割りを飲みながら一人ぼんやりとこれまでのことを振り返っていた。

今後、これまでに学習塾で培ったノウハウは外国人児童・生徒の学習指導・進路指導に役立てていこうと思う。
-2008年3月11日記事「2008年3月10日、奥村学習塾、終了。。。
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by tiaokumura | 2009-03-17 21:04 | 日本語教育 | Comments(2)