カテゴリ:追悼( 67 )

CD 小沢昭一 立川談志

f0030155_20344330.jpg(12月7日朝・記)
CD版 小沢昭一的 新宿末廣亭 特選三夜
一.流行歌のルーツ(第七夜)
二.米朝和解(第九夜)
三.旅の夜風(第十夜)
ビクターエンタテインメント発売
税込み2376円

ドキュメント立川談志
ディスク1
 談志の世界 高座(一)
ディスク2
 稽古風景 高座(二)
ビクターエンタテインメント発売
税込み3024円

先日の朝日新聞(石田祐樹記者)でこのCDを知った。家の近くの博文堂さんに「CDも注文できますか?」って聞いたらOKのお返事。早速注文し、3日ほど前に届いた。
自分、通勤は車で、出稼ぎ^^ん時は往復およそ1時間半の運転(12月は週1回。1月から週2回予定)で、これまでは車中はFM・NHK聞いてた(なぜか、わしの車、これしか入らん。なんでなんじゃろう。でも。おかげでキラキラドンやマリア・カラスやカラヤンや緑魔子、ボブ・ディラン、聴けたけど)。今度から、車中は、このCD。まずは小沢昭一から聴いてます。
小沢昭一、小三治に頼まれて2005年に10日連続で末廣亭に。音源が運よくあったんでしょうね、3夜分がこのCDに。このCD、めっちゃおもしろい。いつかチャンスがあれば、このCD、また紹介します。「米朝」は米国・朝鮮じゃありません、桂米朝です^^。「旅の夜風」、小沢はハーモニカ。
立川談志は、一番ではありませんが、好きな落語家です。今じゃ一番弟子になるんでしょうね、「しのすけ」は」富山県新湊出身です。本CD、小沢が全面構成&編集した1980年のLPをCD化。稽古風景は「野ざらし」です。「なんでもわかるわかるって、出来上がったものが、めちゃくちゃになるといけねえ」。

この記事のカテゴリー、「芸能」「話芸」「語り」ってのがあればそれにしたのですが、ない。「本」「言の葉つれづれ」「音楽」も考えたのですが、「追悼」にしました。立川談志さんは2011年11月21日、小沢昭一さんは2012年12月10日、逝去。

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by tiaokumura | 2016-12-05 20:34 | 追悼 | Comments(0)

りりィさん、ご逝去

今までの人生で、いわゆる「ライヴ」なんて数回しか行っていない。コンサートは何度も行ってますが。で、記憶力の衰え進行中^^の僕、うろ覚えなんだけんど、初めてのライヴは、1970年代、りりィ@新宿だったと思う。あそこ、何てライブハウスだったか・・・。長野県白馬「ハイランドロッヂ」時代に出会ったブチュやアオちゃん、彼らの彼女らも一緒だったか。りりィ(1952-2016)、あの時は20代後半だったのかなあ、僕より5歳年下。
りりィはブチュの影響で聴き始めたと思う。ハイランドロッヂでも何度もかけていた。一番の思い出は、あれはいつのシーズンだったか、雪がずいぶん早くに降るのをやめて、ハイランドロッヂは開店休業状態に。マネージャーの僕は苦慮したうえで、通いのおばさんお二人(西沢さん・宮沢さん)に自宅待機になってもらい、たくさんいた学生バイトにやめてもらい、メニューを減らし・・・など。ヒマになった僕はテラスに椅子を持ち出し、雪がすっかりなくなった名木山ゲレンデ(左には、その後長野オリンピックで使われたジャンプ台あり)を眺めながら、りりィの「お元気ですか♪♪♪」などを聴きながらビールを飲んでた。つまみはピザトーストなんかだったかなあ。若杉慧(わかすぎ・けい1903-87)に『青春前期』という小説があるが、僕の場合、中学高校生時代、大学生時代、ハイランドロッヂ時代と、青春が3期あったんかもしれない^^。

りりィは皆さんには『私は泣いています』(1974)でしょうが、僕(たち)はそれ以前から知ってた。YouTubeにあるでしょうが『心が痛い』(1973)はすばらしい。LP『たまねぎ』(1972)『Dulcimer』(1973)も名盤。ダルシマはシタールみたいな楽器です。ビートルズがそうでしたが、りりィもインドの影響、あったんでしょうね。なお、りりィのその頃のアルバムは木田高介(きだ・たかすけ1949-80)がプロデュースしてました。五輪真弓(いつわ・まゆみ1951-)の『恋人よ』は交通事故死した木田を思ってできた楽曲です。
りりィが映画に出てるということはずいぶん後になって知った。僕の観た中では『FOUJITA』(小栗康平監督。2015)に出てた。岩井俊二作品にも出てるそうです。タイトルは忘れたが、TVドラマにも出てた。
皆さんはドリカムの吉田美和の夫がりりィの息子だってことで、りりィを知ったかもしれませんね。

青春時代に藤圭子と並んで僕の心に響いた歌手・りりィさん。
ありがとうございました
心よりご冥福をお祈りいたします

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by tiaokumura | 2016-11-12 10:26 | 追悼 | Comments(2)

バビロン忌(森有正、没後40年)

f0030155_6542419.jpg1976年10月18日、森有正(もり・ありまさ1911-76)さん、ご逝去。65歳の誕生日まであと1か月ほどでの死だった(当時、僕は30歳)。今、僕は、森の没年から5歳を超える。僕は年老いた←実感^^。僕は生きているということだけで、こうして、森有正を思い出せる年齢になっているんでしょうね。アルベルト・ジャコメッティ(Alberto Giacometti1901-66)は長寿だったと勝手に思っていたが、彼は僕よりも早く64歳で亡くなっている。森とジャコメッティ、同じ年齢でのご逝去。

アップした写真
森有正『バビロンの流れのほとりにてSUR LES FLEUVES DE BABYLONE』(筑摩書房昭和43年6月10日・初版第一刷 定価820円)
です。
本書冒頭の
一つの生涯というものは、その過程を営む、生命の稚い日に、すでに、その本質において、残ることなく、露われているのではないだろうか。(p3)
は、森有正・1952年10月8日@パリの記述。本書のこのページ(縦書き2段組み)の左に僕は、ジャン・グルニエ(Jean Grenier1898-1971)『孤島』の
どんな人生にも、とりわけ人生のあけぼのには、のちのすべてを決定するような、ある瞬間が存在する。そんな瞬間は、あとで見出すことが困難だ。
を引用している。グルニエは、大学生時代に出会った親友・宮崎健二君に教えてもらったように思う。若いときって、わかんないままに映画を観たり音楽を聴いたり本を読んだり、誰かを好きになったり親友を羨んだりSEXが怖かったり、お金への潔癖感やら優先順序やら権威権力との関わりにとまどったり、したんでしょうね。そんな若い頃に出会った『バビロンの流れのほとりにて』は、やがて僕が死んで死体を燃やす前の棺にあれこれ入れられたら、ぜひ入れてほしい本の一冊です。

バビロンの流れのほとりにて』の装幀は栃折久美子(とちおり・くみこ1928-。『モロッコ革の本』『森有正先生のこと』など)です。製本工芸家の彼女と思想家・森との物語も忘れられない。僕は森の死後、二人の真実の関係を知ったのですが。リルケ 森有正訳『フィレンツェだより』(筑摩書房)も栃折の装幀です。

森有正は『バビロンの流れのほとりにて』の「一九六八年版へのあとがき」で心残りを書いている。
・・・ただ一つ心残りは巻末に語彙索引を附することができなかったこと・・・
と彼は書き残す。自分、無謀にも本書に語彙索引をつけようと、若き日のほんのひと時ですが、思ったこと、あります。
「あとがき」には「友人辻邦生氏」「装幀をして下さった栃折さん」の名も。

本記事タイトルの「バビロン忌」は僕の勝手な命名です。ご容赦&陳謝。
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by tiaokumura | 2016-10-18 06:54 | 追悼 | Comments(0)

8月31日、高橋和巳生誕八十五周年

f0030155_5501067.jpg朝日新聞2016年7月16日付「みちものがたり」は綾小路通(あやのこうじどおり)。そこでは、高橋たか子(たかはし・たかこ1932-2013)と高橋和巳(たかはし・かずみ1931-71)の「ものがたり」も語られる。たか子の生家は「綾小路通の一筋南、仏光寺通と醒ケ井通の交差点近く」だった。以下、同記事より引用。
たか子は自身も小説を書きつつ、通訳や事務の仕事で家計を支えた。原稿の清書も受け持った。女遊びも多く平気で家をあける夫が、文学仲間を引き連れて帰ってくれば、奥さんに徹して、貧しい暮らしに不似合いなビフテキをふるまった。
祇園の料亭で恩師や仲間が開いてくれた祝賀会に、「奥さんはダメ」と出席を拒まれた。泣きついて参加費を払い、ようやく列座が許された。
・・・和巳が京大助教授に呼ばれる。たか子は反対した。夫に作家を全うしてほしかったし、自分も女性が「生命力圧殺」される町へ戻りたくなかった。悩んだ末に同行をあきらめた。
たか子は最期まで病床に付き添った。にもかかわらず、悪妻呼ばわりもされた。

本日2016年8月31日は高橋和巳生誕85周年
以下、2009年5月3日付:「邪宗門忌(高橋和巳三十八回忌)」を再録する。アップした写真
高橋和巳作品集4 邪宗門(河出書房新社 1970年1月初版)
である。

高橋和巳が、60とは言わないがせめて50歳まで生きていたらなどと考える誘惑は封印すべきだろう。人は死ぬべくして死ぬのである。昭和6(1931)年8月31日、大阪市浪速区貝殻町に生まれた高橋は、昭和46(1971)年5月3日午後10時55分永眠。葬儀は5月9日、青山葬儀所にて営まれた。葬儀委員長は埴谷雄高。
妻和子(たかこ)の「臨床日記」(『文芸』高橋和巳追悼特集号に所収)から引用する。原文縦書き、用字用語はママ。
(前略)八時ごろ。湯で顔と手をふいてやる。右の眼尻に一滴の涙がこぼれていた。泣いてるの?と言って、私はそれを指先で拭きとった。坂本氏こられる。(略)埴谷氏が高橋君と耳許で大きく呼ばれた時だけ、主人は両眼をひらいた。(略)母が和巳、和巳と泣きさけぶと、右眼だけが少し反応した。私は一度も呼ばなかった。(略)深夜ちかくになって、ふいに呼吸が間伸びしてきて、息が薄くなったかと思うと、息絶えた。十時五十五分。病名を知らず、不可能な時間を夢みたまま、主人は命を終えたのであろう。やすらかな顔であった。
念のため付言すると、「坂本氏」は坂本一亀(坂本龍一の父)、「埴谷氏」は埴谷雄高。和子は京都大学で和巳と同窓(和巳は中文、和子は仏文)で、和巳没後に形而上学的小説を何篇か発表し今はフランスで修道尼になっているとか。

僕が「高橋和巳」なる名前を知ったのは高校生時代だと思う。図書館にあった岩波の吉川幸次郎・小川環樹監修「中国詩人選集」の『李商隠』。当時の僕は李賀がランボーで、李商隠はヴェルレエヌと勝手に決め付けていたので^^「ふ~ん、高橋和巳って少壮の学者がおるんだなぁ」くらいにしか思わなかった。今確かめてみると『李商隠』は1958年刊行、刊行当時高橋和巳は27歳(京都大学大学院博士課程在学中。翌年修了)である。いくら吉川の推挙があったとはいえ、院生が岩波から本を出すのですから、今にして思えばすごいことです。
やがて僕は大学進学のため1965年3月に上京。「朝日ジャーナル」に連載中の『邪宗門』(1965年1月~66年5月)の熱心な読者になった。そして、読んだ順は忘れたが『捨子物語』『悲の器』『憂欝なる党派』『日本の悪霊』『我が心は石にあらず』『堕落』『散華』『白く塗りたる墓』『黄昏の橋』といった小説群は刊行とほぼ同時に読み(ずいぶん多作家だが、10年足らずの作家活動である)、『文学の責任』『孤立無援の思想』『新しき長城』『孤立の憂愁の中で』『変革の思想を問う』『わが解体』『人間にとって』『自立の思想』などのエッセイ集もほぼ全部読んだ。
僕は生前の高橋に一度だけ会っている。あれは22歳の秋だったろうか。鬱屈した気持ちで帰省していた時のこと。今はない「富山市公会堂」での講演。苦悩教教祖とも揶揄された彼だが、それでも何度か笑いを呼ぶ発言もあったように思う。熱気の退潮した時代だったのだろう、聴衆は極めて少なかった。高橋を矮小化するようで恐縮だが、僕が高橋に学んだことの一つは「権威・権力・強者・金持ちに対峙しうる思想を構築すること」である。今の自分の立場上、権威の威を借りてエバってみせることも、権力にすり寄らなければならないことも、強者におべんちゃらをこかなければならないことも、金持ちのヨイショをしなけらばならないことも、組織の一員として生きている以上何度もあるが、それでも一個人としての矜持は持ち続けたいと思う。
「健康で文化的な最低限度の生活」さえ営めない人が数多いるこの国でこんなことを書くと、「甘っちょろい!」「青臭い!」と言われるかもしれぬが、あちこち迷走した末の62歳の今の自分は、けっきょく、若き日の理想=「自由・平等・博愛」の実現を目指しているのかもしれない。

吉川や桑原武夫や白川静に愛され期待された学の水準(高橋が辻邦生に言ったそうだ、「京都ではな、学者は泣きながら勉強するんや」と)、小田実や小松左京らと競い合うように発表した創作群(小田実は弔辞「とむらいのことば」で「すべての気持をこめて、高橋和巳よ、ホナ、サイナラ。」と述べる)、孤立無援を恐れず対自化された思想の高み・思索の深み(「スターリンを疑い、レーニンを疑うことからやがてはマルクスをも疑うに到るだろう。仏法のためには釈迦をも斬る精神のほかに、しかし期待しうる何があるだろうか。」)、友人知人はもとより埴谷や寺田透や武田泰淳らに愛された人柄。内村剛介の言い方を借りれば、39歳で亡くなった高橋和巳はまさに「生き急いだ」人生ということになるのでしょうね。今はもう高橋和巳は「過去の人」になってしまっているのだろうが、その運動体組織論も含めて、まだまだ読み継がれ語り継がれていく価値があるのではないだろうか。

若き日の夢往還す 邪宗門忌
語り合う友とてもなく 邪宗門忌
邪宗門忌 志の之くところ 未だ見ず
(「邪宗門忌」は一般通用の語ではなく、私の勝手な造語です。陳謝)

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by tiaokumura | 2016-08-31 05:50 | 追悼 | Comments(0)

夢は夜ひらく忌


奥村:以下、当ブログ・2014年8月22日付「藤圭子さん、1周忌」再掲。ただし、一部改。

1969年9月、岩手県一関市生まれの18歳の少女・阿部純子が鮮烈なデビューを飾った。同じ時に、歌がうまい女の子なら和田アキ子が、美少女ならカルメン・マキが、時代の象徴ならピーターが現れたが、阿部純子=藤圭子は、歌のうまさも美少女性も時代の象徴も全て兼ね備えていたところが、多くの他の同時代の歌手たちと異なっていた。彼女の歌う『新宿の女』は、その詞(みずの稔・石坂まさを)には寺山修司『時には母のない子のように』にはない怨みが、そのメロディー(石坂まさを)にはいずみたく『いいじゃないの幸せならば』とは異なる暗さが込められていた。詞も曲も、そして何よりも歌手本人が、僕たち一般大衆の心の奥深くを撃った。
デビュー曲『新宿の女』に続く『女のブルース』(1970年2月。作詞・石坂まさを、作曲・猪俣公章)で20週+17週という37週連続1位。そして、もし彼女の曲1曲となると僕はこれを選びたい『圭子の夢は夜ひらく』の第3弾(1970年4月。作詞・石坂まさを、作曲・曽根幸明。B面は『東京流れもの』)も大ヒット、第4弾『命預けます』(1970年10月。作詞・作曲・石坂まさを)も留まるところを知らぬ勢いでのヒット連発となった。あの頃は、どこでも藤圭子の歌が聞かれたものである。だが、「演歌の星を背負った宿命の少女」(売り出し時のキャッチコピー)はやがて時代に合わなくなる。「歌は世に連れ」は確かだが、いかに藤圭子ワールドとはいえ、「世は歌に連れ」はせいぜい錯覚どまりなんでしょうね。藤圭子の紅白出場は1976年の5回目が最後だった。最後のシングルヒットは『京都から博多まで』(1972年1月。作詞・阿久悠、作曲・猪俣公章)でしょうか。
2013年8月22日は木曜日で、僕は、富山国際学院での勤務中に、ネットのニュースサイトでその朝の藤圭子の西新宿での自死を知った。その後の報道にスキャンダラスなものも少しはあったが、全体に彼女を温かく受け入れるような報道態度だったのは、イマドキのメディアでは珍しかったかもしれない。50代・60代の、藤圭子に青春を彩ってもらったスタッフが、マスメディア業界に残っていたからかもしれない。娘・宇多田ヒカルの母へのコメントもすばらしかった。

以下、YouTubeからアップ。『カスバの女』『圭子の夢は夜ひらく』『みだれ髪』。意外&不謹慎かもしれないが、1・3曲目はカヴァー曲です。YouTubeには藤のカヴァー曲もかなりの数がアップされています。どの曲も自家薬籠というか、藤圭子ワールド。彼女の才能のすごさに唯々聞きほれるばかりです。

前回記事では削除されちゃいましたが、今回はちゃんと続いてほしいものです、このYouTube

なお、当ブログ、3年前の2013年夏、自死直後の藤圭子追悼記事はこちらです。

https://youtu.be/zLCyHid8SC8
https://youtu.be/AImrOR_qqSg
https://youtu.be/5PSA1Yu0GIA


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by tiaokumura | 2016-08-22 06:05 | 追悼 | Comments(0)

高平公嗣君、ご逝去

3月9日(水)、富山国際学院での勤務を終え帰宅して、6:10からのNHKニュース富山版を見ていてビックリした。高平公嗣君、ご逝去のニュース。
高平公嗣(たかひら・こうじ)君は立山中学出身で僕と出身中学は異なるが、進学先の高校で出会った。彼とは3年間で1回くらい同級か隣接級だったかも。彼の父君は公友(きみとも)さん。県議から参議院議員になった方。郷土の発展にずいぶん尽くされた。そんな父君を持つ公嗣君であった。
当ブログ、7年前・2009年3月12日付の記事で、高平君(当時「副議長」)のことを書いている。以下引用。

高平君とは高校時代に1度くらい同級になっているかもしれない。父君(故人)は参議院議員。彼は東京の私大に進学、東京で何度か会っているかもしれない。僕の記憶では前川清バリの歌を歌ったように思うがどうだろうか。僕の次姉が高平君の地元に嫁いでいて、姉から彼の話をときどき聞いた。県議会議員に立候補し当選、富山市の老舗割烹の娘さんと結婚など。僕は県議会議員選挙区が異なるので応援したことはない。何度か激戦を制して、今では副議長に就く経歴になったのでしょうね。

69歳。県議6期、県会議長、自民党県連幹事長など歴任。まだまだ活動できる年齢であった。私なんかが「君付け」しては失礼な方でしょうね。世のため・人のために尽くす激務の中でご逝去。植出耕一君もそうだったが、高平君もご家族や周囲の人々が予期せぬ最期であった。

ここに謹んで 高平公嗣さんのご冥福を ご祈念申し上げます
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by tiaokumura | 2016-03-12 13:49 | 追悼 | Comments(0)

ジョン・レノン(John Lennon)、没後35年

今日はジョン・レノンの祥月命日です。没後35年になる。
以下、3年前の記事「12月8日という日」を再掲。YouTubeはアップしなおしますが、記事は改変せずそのままです。

12月8日は、2つのことで記憶に残る日(Day to Remember)であろう。
1つは、1931(昭和6)年9月18日の柳条湖の満鉄路線爆破(満州事変)に端を発するアジア・太平洋戦争中の、日米開戦が12月8日である。1941(昭和16)年12月8日、日本軍、真珠湾奇襲。同日午前の「宣戦の詔書」に曰く、「帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。・・・帝国は今や自存自衛のため、蹶然起って一切の障礙を破砕するの外なきなり」。同日夜の「宣戦の布告にあたり国民に愬う」に曰く、「国民諸君、同胞諸君!・・・アジアを白人の手からアジア人自らの手に奪い回す・・・アジア人のアジアを創り上げる・・・」。
もう1つの「12月8日」はジョン・レノン(John Winston Ono Lennon1940-80)の祥月命日(Date of Death)。1980(昭和55)年12月8日、ジョン・レノン銃弾に命を奪われる。40年2か月の短い生涯。今年はジョン・レノン没後32年になる。
今年はビートルズ結成50周年でもある。皆さんのビートルズ初体験はいつ・どこで・何の曲だったでしょうか。僕は1963年・高校2年生のとき、同級生の大間知岩雄君の家で、Love Me DoかTwist and Shoutだったような気がする。先日、あることでネット検索してたら大間知君の名がヒットして驚いた。彼、アメリカンポップスなど音楽に詳しい男だった。確か、フランク・シナトラファンだった。

YouTubeからJohn Lennonの3曲をアップさせていただく。Stand by MeHappy Xmas(War Is Over)、そしてImagine。Imagineの歌詞は以下の通り。
Imagine there's no Heaven
It's easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will live as one



(2015年12月8日・追記)
Imagine中のbrotherhood of manは性差別だということで、後にsisterhoodも加えられたように記憶しますが、本記事のアップはそうなってないみたい。
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by tiaokumura | 2015-12-08 06:59 | 追悼 | Comments(4)

明日12月6日、鶴田浩二・誕生日

以下、Wikipediaと記憶を基に記述。
鶴田浩二(つるた・こうじ1924-87)は僕にとって忘れられない俳優・歌手。アップしたYouTube、聞き慣れない曲かもしれませんが『流浪の旅』(作詞・作曲:後藤紫雲、宮島郁芳。「熱海の海岸散歩する・・・」の『金色夜叉』もこのコンビの曲)です。曲中の「二八」は2×8=16、数えの16歳です。「二八に帰るすべもなし」という、別の曲(四高寮歌?ですが、富山高校でも詞を変えて歌われていた)ですが、そういう詞もある。
鶴田は昭和24年に『フランチェスカの鐘』で初主演。この当時、佐田啓二・高田浩二・高橋貞二・・・「二」の付く人気俳優、多かった。「フランチェスカの鐘が鳴る・・・」って流行歌、僕、知ってますが、この映画の主題曲だったんでしょうか、あるいは、歌先行か。
鶴田の歌手デビューは、自殺未遂事件の後の昭和27年の『男の夜曲』。
鶴田で忘れられない歴史は、昭和28年、大阪天王寺での襲撃事件でしょうね。山口組三代目・田岡一雄が全国区になるきっかけでもあった。
そして、そろそろ人気に翳りが見えた頃に主演したのが昭和38年『人生劇場 飛車角』。東映の任侠映画で高倉健・藤純子と並び数多く出演。3人揃い踏みの映画も何編かある。
昭和60年、癌が判明、昭和62年・肺癌で死去。同じ年に石原裕次郎が亡くなり、美空ひばりはその頃は入院中で2年後に亡くなっている。鶴田の葬儀で弔辞を読んだのは池部良。墓所は鎌倉霊園
鶴田、三島由紀夫とは同年なんですね、二人は親交がある。
鶴田はアジア太平洋戦争時、大井海軍航空隊整備科予備士官。海軍少尉・小野榮一は特攻隊ではなかったのですが、彼の心情は後に特攻隊生き残りらに理解された。鶴田には台詞入りの『同期の櫻』がある。
最後の出演映画は昭和60年『最後の博徒』。出演したTVドラマには『男たちの旅路』(昭和51年~57年)などがある。彼には数々のヒット曲がありますが、上述以外では『街のサンドイッチマン』『赤と黒のブルース』『好きだった』『傷だらけの人生』『散る桜残る桜も散る桜』など。これら、どれも、僕、カラオケで歌えます(照)。鶴田は、左手を耳に添えハンカチでマイクを包む独特の歌い方も記憶に残る。
今頃鶴田浩二は天国で高倉健や菅原文太や美空ひばりらとあれこれ語らいながら過ごしていることでしょうね。あるいは多くの女性にキャーキャー言われながら来る誕生日を祝われているかも^^。

『旅の終わりに』が『流浪の旅』のパクリだという説、あります。どうなんでしょうネ、似てるっちゃ、似てる・・・。


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by tiaokumura | 2015-12-05 12:11 | 追悼 | Comments(0)

2015年8月22日 藤圭子さん、三回忌

1969年9月、岩手県一関市生まれの18歳の少女・阿部純子が鮮烈なデビューを飾った。同じ時に、歌がうまい女の子なら和田アキ子が、美少女ならカルメン・マキが、時代の象徴ならピーターが現れたが、阿部純子=藤圭子は、歌のうまさも美少女性も時代の象徴も全て兼ね備えていたところが、多くの他の同時代の歌手たちと異なっていた。彼女の歌う『新宿の女』は、その詞(みずの稔・石坂まさを)には寺山修司『時には母のない子のように』にはない怨みが、そのメロディー(石坂まさを)にはいずみたく『いいじゃないの幸せならば』とは異なる暗さが込められていた。詞も曲も、そして何よりも歌手本人が、僕たち一般大衆の心の奥深くを撃った。
デビュー曲『新宿の女』に続く『女のブルース』(1970年2月。作詞・石坂まさを、作曲・猪俣公章)で20週+17週という37週連続1位。そして、もし彼女の曲1曲となると僕はこれを選びたい『圭子の夢は夜開く』の第3弾(1970年4月。作詞・石坂まさを、作曲・曽根幸明。B面は『東京流れもの』)も大ヒット、第4弾『命預けます』(1970年10月。作詞・作曲・石坂まさを)も留まるところを知らぬ勢いでのヒット連発となった。あの頃は、どこでも藤圭子の歌が聞かれたものである。だが、「演歌の星を背負った宿命の少女」(売り出し時のキャッチコピー)はやがて時代に合わなくなる。「歌は世に連れ」は確かだが、いかに藤圭子ワールドとはいえ、「世は歌に連れ」はせいぜい錯覚どまりなんでしょうね。藤圭子の紅白出場は1976年の5回目が最後だった。最後のシングルヒットは『京都から博多まで』(1972年1月。作詞・阿久悠、作曲・猪俣公章)でしょうか。
2013年8月22日は木曜日で、僕は、富山国際学院での勤務中に、ネットのニュースサイトでその朝の藤圭子の西新宿での自死を知った。その後の報道にスキャンダラスなものも少しはあったが、全体に彼女を温かく受け入れるような報道態度だったのは、イマドキのメディアでは珍しかったかもしれない。50代・60代の、藤圭子に青春を彩ってもらったスタッフがマスメディア業界に残っていたからかもしれない。宇多田ヒカルの母へのコメントもすばらしかった。
(以上、当ブログ・2014年8月22日付「藤圭子さん、1周忌」再掲。ただし、一部改)

YouTube、著作権の関係か、藤圭子、いいのが見つからない。「藤圭子 伝説の名曲」にしました。網走番外地(カヴァー)、新宿の女、東京流れもの(競作)、命預けます、圭子の夢は夜開く の5曲です。藤圭子の『みだれ髪』カヴァーもアップしたかった。
なお、当ブログ、2013年夏の藤圭子追悼記事はこちらです。

明日8月22日、新宿で藤圭子追悼の集いもきっとあることでしょうね。

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by tiaokumura | 2015-08-21 13:50 | 追悼 | Comments(2)

若松孝二監督、3回忌

2012年10月17日、生と革命の映画監督若松孝二、死去。不慮の交通事故から5日目のことであった。若松が描いたのは一方で生、即ち性であり死であり、一方で革命、即ち暴力であり異議申し立てであった。若松組で演技開眼した俳優は数多いが、男優では井浦新(いうら・あらた1974-。『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』など)、女優では寺島しのぶ(てらしま・しのぶ1972-。『キャタピラー』など)が双璧であろう。
僕は若いときはただ「すごい監督だ」くらいで敬遠していたところもあったが、彼の晩年(残念な言葉ではあるが)の5作品すべてを観ることができたのは、ありがたいことである。
遺作は『千年の愉楽』。若松が強く推奨した映画『革命の子どもたち』が今週末フォルツァ総曲輪で上映される。
以下、1年前の当ブログ記事を再掲し、若松映画ワールドを偲びたい。
この2年、天上界は中上や若松や寺山らで喧々諤々さぞかし喧騒であったことでしょうね^^。議論はいつ果てるともなく続く。

人は、生まれて、死んで、また生まれて、死んでいく。その営みの繰り返しだ。人が人を差別するこの社会の中に、次々生まれては死んでいく。あまりに不条理で、だけど、だからこそ、中上が思わず文章で描かずにはいられなかった美しさがあり、僕がその文章に触発されて作った映像がある。不条理だから、表現が生まれるのだ。
中上と、あの世で再会したら、彼の感想を聞かせてもらいたい。
(映画パンフレット『若松孝二 千年の愉楽』p1「生きることは不条理だから美しい」)
若松孝二(わかまつ・こうじ1936-2012)は中上健次(なかがみ・けんじ1946-92)原作を映像化した『千年の愉楽』の翌年春の公開を前に、2012年10月12日に新宿で交通事故に遭いその5日後に亡くなった。今頃は、「あの世」の新宿ゴールデン街で中上や立松和平(たてまつ・わへい1947-2010)らと交友を復活していることでしょうね。三島由紀夫や寺山修司や森恒夫や永山則夫や神代辰巳や大島渚らもいるかも。
若松が井浦新(いうら・あらた1974-)と富山に来て舞台挨拶を行った時の記事はこちら(『11.25自決の日』+『海燕ホテル・ブルー』+若松孝二・井浦新「舞台挨拶」)。お二人との3ショット写真もあります。まさかあの日からわずか2週間ほどで死を迎えるなんて・・・。
若松孝二・主な作品
甘い罠(1963) 壁の中の秘事(1965) 胎児が密猟する時(1966) ゆけゆけ二度目の処女(1969) 新宿マッド(1970) 赤軍-PFLP-世界戦争宣言(1971) 略称・連続射殺魔(1975) 水のないプール(1982) 寝盗られ宗介(1992) 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(2008) キャタピラー(2010) 海燕ホテル・ブルー(2012)  11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち(2012) 千年の愉楽(2012)
ワカマツ語録
台本は信じるなって言ってるだろう。何べん言えばわかるんだよ。
僕にとっては、料理も映画作りも同じ。こっちの素材とあっちの素材を組み合わせて、こんな味付けしたら、みんな美味しいっていうかな、面白いって言うかなって。
僕みたいなやつが映画を作れるんだから、映画は誰にでも作れると思うよ。作りたいという心さえあれば。自分たちの業界の知ったかぶりみたいなのが、一番くだらないよ。決まったやり方なんてないんだから。
僕はね、朝起きると、窓から御苑の木を見て、ああ、今朝も目が覚めたなって思うんだよ。だって、眠ったまま、もう起きない事があるかもしれないだろ。
怒りを忘れちゃ、だめだよ。おかしいと思ったら、おかしいって声をあげる。ちょっと待てよ、と自分で考えること。
歌を歌って、仲良く楽しくデモなんて、冗談じゃないよ。死ぬ気でやれよ。政治家を落とす運動しろよ。
俺は、映画を見て「時間を損した」って言われるのが一番イヤだね。お金は仕方ないよね。見ちゃったんだから。
心配するなって。なければないで、ないなりにやるから。任せとけ。
ほめられようとしちゃ、だめだよな。ぶれるからな。手帳に書いたんだよ。「群れない」「頼らない」「ぶれない」「ほめられようとしない」。自分に言い聞かせてる。
僕は、人を見るときは、食事に連れて行くんだ。飯の食い方に、人間性が出るんだよ。
ええじゃないか。だめならだめで。そしたら、裸になって、宮城の田舎かどっかに消えるよ。
欲が深い奴は負けるんだよ。俺は肺がんやってから、欲がなくなったからな。
(注)
本記事の引用は、映画パンフレット『若松孝二 千年の愉楽』(2013年3月15日初版第1刷 遊学社)による。
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by tiaokumura | 2014-10-17 06:51 | 追悼 | Comments(2)