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吉本隆明と富山

藤圭子(1951-)も吉本隆明(1924-)も今やそれぞれの娘のほうが有名なのだろうけど、僕(たち)にはやはり宇多田ヒカル(1983-)より藤圭子、よしもとばなな(1964-)より吉本隆明です。
今朝の北日本新聞に「吉本隆明 戦争の夏の日」という記事。「越中文学館」というシリ-ズの第41回。このシリーズ(やがて単行本化されるのかもしれません)は、富山県と関係深い作家・富山県が舞台になった文学作品を紹介するものです。地方紙連載なのでお目に触れることが少ないかもしれないので、本日の当ブログでご紹介。

吉本隆明(以下「吉本」)は、東京月島生れ。東京工業大学在学時、徴用動員により富山県魚津市の日本カーバイド魚津工場で働く。今回の記事で取り上げられている彼のエッセー「戦争の夏の日」は、1977年8月13日付の北日本新聞に掲載されたそうです。
吉本は1945年8月15日正午、玉音放送(「敗戦宣言」)を徴用先の工場で聞く。そして
時間が停止した。頭のなかで世界は、白い膜を張られた空白になっていった。(同記事より引用)
エッセーでは続いて、寮に帰って独り泣いていた吉本が、寮母から「喧嘩をしたか、寝てなだめるのがいい」と声を掛けられる場面が記述されているそうです。「敗戦」のショックを「喧嘩」と誤解されたのですね、寮母(僕の想像ですが彼女は当時50代以上でしょうネ)に。同記事の田中和生という文芸評論家の
戦争が終わっても、庶民の暮らしが変わらず続くことを象徴するようなエピソード。こうした認識が、吉本の戦後の思想に結びついたのではないか(同記事)
という指摘はその通りだろうと思う。
今回の記事を書くにあたって記者氏(署名なし)は吉本にTELしている。記者氏から今の魚津の海の様子を聞いた83歳の吉本は
「あのころは砂地だった。ずいぶんたつから、もう変わってしまったでしょうねえ」と感慨深げに語り、「あそこから、わたしの第二の青春が始まった」と言葉を継いだ。脳裏にはあの夏の海が、よみがえっているのだろう。(同記事)

吉本が日本カーバイド魚津工場に徴用動員されていたことは初耳ではないが、このエッセーそして吉本に短歌があることは今回初めて知った。
魚津滞在中に吉本は立山へ出かけていて、
人生でただ一度だけ作ったという短歌が2首残っている(同記事)。
その2首が以下。
紫陽花のはなのひとつら手にとりて越の立山いま行かんとす
手をとりて告げたきこともありにしを山川も人も別れてきにけり

古今調あるいは若山牧水風の駄作^^ですが、吉本の作ともなると、なんか貴重な資料のようにも思われますよね(爆)。

私の本棚には森有正(1911-76)・辻邦生(1925-99)・高橋和巳(1931-71)・吉本隆明が各10冊前後並んでいる。僕は東京では高田馬場・上板橋・中村橋・常盤台・練馬・国分寺など、駅名で言うとそういったあたりに住んでいたのだが、その引越しの際にも持ち歩き、富山にUターンしたときにも持ち運んだ本たちの一部である。
吉本隆明の初期の詩作は『吉本隆明全著作集』(勁草書房)の第2・3巻に収められている。北日本新聞の記事に触発され、懐かしく両巻を函から出してみた。このブログ記事に引用したいと思った詩を見つけようとも思い、パラパラめくる。20代の僕があちこちに残した印・書き込み。読みながら、20代の僕は今やもうはるか彼方の他人のように思われ寂しかった。目的の詩も僕の勘違いなんでしょうか(別の巻になりそう)見つからなかった。
by tiaokumura | 2008-08-11 19:57 | 富山 | Comments(0)


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