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まだ足りぬ 映(は)えて 画(えが)いて あの世まで  マキノ雅弘

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(7月21日夜・記)
昨日7月20日の夜、ETV特集「マキノ雅弘 あるカツドウ屋の生涯」を見た。NHK教育、10時~11時半。
僕のような世代にマキノ雅弘は「仁侠映画」なのだが、リアルタイムでそれにハマった後、時を経て1980年前後だったろうか、たまたま行った図書館で彼の『映画渡世』(確か平凡社刊で天の巻・地の巻の2冊。人の巻ってあったのだろうか)を読み、彼が「仁侠映画」というスケールには収まらない、日本映画史上傑出した映画人であることを知った。

マキノ雅弘(1908-93。本名牧野正唯、父は「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三。以下「雅弘」と表記)、今年が生誕100年なので、このETV特集になったんでしょうね。
番組は、「第1巻 宿命」から、流転・逢魔・再起などと続き「第6巻 遺言」で終わる、実にシャレた構成。番組中随所に雅弘が監督した「実録忠臣蔵」「浪人街」「血煙高田の馬場」「雄呂血」「鴛鴦歌合戦」「阿片戦争」などの貴重なフルムが挿入される。
雅弘は、省三29歳の1908年に京都に生れる。父は「活動写真」の将来を信じ、目玉の松ちゃんらを起用して次々とヒットを飛ばす。雅弘はそんな父の下、4歳で子役に。晴れた日は撮影のため小学校に行かせてもらえず、学校では「子役!」「泥役者」「河原乞食」と級友からさげすまれる。16歳で助監督、18歳で監督。父の後ろ盾があったにしても実に早熟な天才。父が教えた映画の大切な3つの要素が番組中で紹介されていた。「スジ(シナリオ)、ヌケ(映像)、ドウサ(演技)」である。この教えは後年に至るまで雅弘のバックボーンになっていたと思う。彼の作品の多くに見られる、神業的な早撮り・大スター中心ではない作品群・様式美に高められた映像などがその証拠になるだろう。
1928年、「浪人街」でキネ旬ベスト1獲得。スター不在の青春群像劇であり、当時の世相を反映したアナーキーな映画。ユーモアもまぶしてある映画で、旗本が「裏切ったな」と糾弾すると浪人のほうは「裏切ったんじゃない。表返ったのじゃ」と切り返す。この年のキネ旬トップ10に雅弘作品は3本も入っている。雅弘、この年弱冠20歳。
父の死後残された借金30万円(今の5~10億円)を抱えながらも映画作りに励む。来るべきトーキー時代に備え勉強のために上京もする。こういうところは現状に満足せず更にいい映画を目指す雅弘の真骨頂なんでしょうね。1935年(27歳)で「マキノトーキー」を設立。1年に30本を製作。だが「いい映画を」の想いも、日活などの大資本の前には勝てず、この後彼がプロダクションをつくることはなく、一介の雇われ監督としての生涯を過ごす。1939年「映画法」が施行。「国策映画」を作るための政府の方便だったんでしょうね。轟夕起子と結婚(「沖縄アクターズスクール」のマキノ正幸は二人の間の子)。新婚旅行で満州(当時)へ。弟のマキノ光雄と再会。当時は満映の全盛期。理事長はかの甘粕正彦(最近出た本で甘粕が「再評価」されてるみたいですが、どうなんでしょうか)。雅弘も弟らに満映入りを勧められるが、甘粕や「五族協和」の嘘っぱちを見抜いた雅弘には、そんな意思は芽生えようもなかった。一流の審美眼を身につけた人物には政治の真実を見抜く力も備わっているんでしょうね。彼が帰国後作った「国策映画」の一つは「阿片戦争」。検閲にはひっかからなかったようですが、「嵐の孤児」(1921。原題Orphants of the Storm)を下敷きにしたストーリーで(原節子・高峰秀子が姉妹役)、彼の父も評価していた「アメリカ映画」へのいわばオマージュ作と言える。番組中でもう1本紹介されてた彼の「国策映画」が「ハナ子さん」(1942。轟夕起子と灰田勝彦が夫婦役)。こちらは検閲でバッサバサ切られ「国賊映画」となる。でもそれって汚名じゃなく名誉でしょうね^^。
戦後、帰国した光雄の要請で次々と映画を作る。ヒロポン打ちながらってぇんですからすさまじい限り。
一時は表舞台から去った雅弘だが、1952年「次郎長三国志」(後にシリーズ化)で再起。このシリーズ、製作年代からいけば僕が子供の頃見ててもいいはずですが、記憶にはありません。1957年に11億人近い観客動員を誇った映画だが、やがて斜陽産業に。そうです、TVの登場です。弟光雄は1957年死去。僕が子どもの頃に夢中で見た東映映画の「笛吹童子」「紅孔雀」は光雄がプロデューサーだった。
日本侠客伝」は1964~69年。当時まだ無名に近かった高倉健を起用し大ヒット。池袋の深夜映画での観客(僕もその一人だった^^)の様子、この番組中でも語られていた。雅弘の偉いのは、「人殺しばかりだと、やがて大衆に見離される」と冷静に分析していたところ。ブームに流されることがなかったんですね。番組中に、雅弘が思いを込めて作ったシーン(高倉健と星由里子の別れのシーン)が挿入される。そこで星はお腹に新しい命が芽生えていることを高倉に告げる。それを聞いた高倉のセリフは、仁侠映画史ばかりでなく映画史上に残る名セリフでしょうね。「男と女」を描ききることでも天才だった雅弘。
彼の261本目(そして最後)の作品が「関東緋桜一家」、彼が育て上げた藤純子の引退映画でもある。

晩年の20年間、彼が映画を作ることは遂になかった。1993年85歳で逝去。辞世の句は「まだ足りぬ 映(は)えて 画(えが) いて あの世まで」。この句を見、先日引退した野茂英雄を思い出した。雅弘も野茂も道こそ違え、「これで良し」ってことなど眼中になく、己の理想を追い求めたんでしょうね。雅弘の墓は等持院にある。
写真は「湯布院映画祭」に招かれたマキノ雅弘。そこで彼は最後に声を振り絞って訴える、「皆さん、ここで約束してください。映画を見に行くと。日本映画を見に行くと・・・」。
by tiaokumura | 2008-07-20 22:05 | 映画 | Comments(0)


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