「異文化理解」よりは「
多文化共生」のほうが最近はよく使われるようになったような気がする。「異文化」にはどうしても「珍奇なもの・遅れたもの」というニュアンアスがまとわりつくせいだろうか。
学院が
特定非営利活動法人の申請をする際の「設立趣意書」でも「多文化共生」を使った。その時、お互いの文化には優劣はない、文化の違いは歴然としてある、受容と反発の両面とも過剰にならないように努めなければならない、といったようなことを考えていた。文化を相対化することによって失われるものもあることを危惧しつつ。
冷戦の終結により「イデオロギー」上の対立はほぼなくなったようだが、貧困・飢餓・環境問題・核兵器など、
21世紀の地球人が取り組まなければならない課題は依然として多い。とりわけ根が深い難問は
民族・宗教による対立だろう。
日本のマスメディアはあまり報道しないか、あるいは深刻な問題としてとらえていないようだが、
イスラム教預言者ムハンマドの風刺漫画に端を発した混乱が、デンマーク・ドイツ・フランスなどヨーロッパ各地に拡大している。昨秋に続きパリはまた大変なようだ。そして、イスラム教圏各地では抗議運動が頻発している。死者も出た。「対岸の火事」視しているわけではないのだろうが、日本のマスメディアはもっと報道すべきだろう。
イスラム教では
偶像崇拝を禁じている。それがあろうことにか破廉恥なマンガ仕立てにして一般紙・誌に掲載したのだ。大いなる侮辱である。いや、侮辱以上であろう。イランの有力紙は対抗してホロコーストのマンガコンペを開くとのこと(CNNのネットニュースに拠る。日本の新聞では報じられているのかどうか)。イラン紙の立場に立てば、
あちらに「表現の自由」があるのならこちらにも「表現の自由」あり、なのだろう。なんだか江戸時代の踏絵を連想してしまう。
私は「
表現の自由」はマスメディアはもちろん一個人に至るまで絶対に譲れない権利だと思う。マスメディアの場合は権利であると同時に
義務でもある(がんばれ!マスメディア)。だが「表現の自由」の美名の下に、何でもアリ・売れれば何をしてもいい・読者が喜ぶのだから掲載OK、には反対する。僕はブラックユーモアも好きだしポルノも嫌いじゃない。だが、そこには「人間として」踏み越えてはならない一線があると思う。「
禁じ手」とでも言えばわかりやすいかもしれない。
事態がここまでになった今、解決は困難だろう。「時」がたてば忘れられていく性質のものでもない。深刻さをひしひしと感じるばかりである。