雲井利彦先生の思い出

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この間、長野の聖火リレーのニュースを見ていて、僕も聖火リレーに参加したことを思い出していた。東京オリンピックの時、僕は富山高校3年生でした。あのとき日本全国の聖火リレーがあって、運がよかったんでしょうね、陸上競技部員(ハンドボール部員でもあった)だった僕、聖火リレーに参加できた、伴走者でしたけど(照)。開発君って言うこれは走り幅跳びで県下トップクラスのアスリートが聖火を持ち、その後を中田君(3年)や菅原君(2年?)らと一緒に付き従って走る。なんせはるか遠い昔のことで、よう覚えとらんのですが(汗)、旧・富山大和デパート前あたりを走ったような気がする。当時の写真も確かあったはずですが、どこかに行ってしまってるみたく見つかりません。今みたいにオシャレなユニフォームなんかない時代ですから、ランニングシャツ・短パンってないでたちだったかも(爆)。
1962年4月から1965年3月まで、僕は富山県立富山高校に在学してました。県下有数の進学校で、それに反発してタバコ吸ったり喫茶店に出入りしたり不純異性交遊(懐かしい死語!?)などもしましたが、どちらかと言うとマジメでおとなしい高校生でした。今だったら一発で停退学もあり得るような行動もしたことになるのでしょうが、牧歌的な時代だったんでしょうね、無事フツーに卒業でき大学にも進学できました。高校時代は文系クラスで、今はどうか知りませんが、社会は4科目、理科は2科目(化学・生物)履修したように思う。理科は石上英将先生(ブラスバンド部顧問もなさってた)、坂下先生、山根先生だったか。社会は人文地理が岡田英子先生(後に本木姓。久世光彦と同級生。本木克英映画監督のご母堂)、日本史が高井進先生、世界史が平井先生、そして当時は一般社会とか公民と言っただろうか、3年次の社会は雲井利彦先生でした。
多くの教え子がいらっしゃる雲井先生、僕はもちろん先生の長いご教職経験の一瞬でしかない生徒ですので、僕のことなぞはご記憶にないのですが、僕自身は今こうして振り返ってみて、すばらしい先生だったとしみじみ思っています。温厚な先生で感情をあらわにされることはなく、その授業では僕たちナマイキ盛りの高校生に諄々と教え諭す感じで、社会の仕組み・世の中の矛盾・人間として生きるべき道・未来の己のあり方などについて語られた。クラスメートで仲が良かった横井博君が登山部で、そんな関係でちょっと授業外で登山部顧問の雲井先生とお話したこともある。横井君は後に山善に就職、何年か前のクラス会(ご担任・守田平先生)で再会した。横井君は難病を患っていて、週に何回かの病院通い。クラス会から2年後だったか、彼に出した年賀状の返事が奥様の筆で彼の死を告げるものであった。彼のようないい奴が不治の病に倒れ自分のようなぐうたら者より先立つ不条理。悔しく残念だった。

最近北日本新聞は飛ばし読みすることが多く、うかつにも見逃していたのだが、同紙4月27日付けの写真の記事で雲井利彦先生の訃報を知った。
先生に教えていただいたのはわずか1年なので、今回の記事を読んで先生について存じ上げなかったことをいくつも知った。
先生は富山市内の大雲寺にご長男として出生。京都大学法学部のご出身。帰郷され富山南部高校(現在の富山高校)が教員としてのスタート。僕は先生の教員生活10年目くらい・30代頃の教え子ということになるのだろうか。先生はその後、県教委→水橋中学校長。42歳で中学校長ですから驚きです。その後市教委やいくつかの高校長をご歴任。1988(昭和63)年に富山市教育長にご就任。
本記事中に、先生が生徒に贈られた言葉として2つ紹介されている。
「己に誠実に努めていくなら、おのずから道ができる」
「周囲の人に心温まり、喜ばす人になるよう努めてほしい」

僕が雲井先生から直接うかがってはいない言葉ですが、社会科を教わっていたときの先生の雰囲気を思い浮かべると、正に先生ならではの至言だと思います。

記事には、奥様との写真も載っています。僕の知っている雲井先生は30代、この写真は70代。メガネの奥のお優しいまなざしや頬骨の形などに、僕が教わった頃のイメージが残っています。

雲井利彦先生、1月3日ご逝去。享年79歳。
ほんの短い期間の「教え子」の私ですが、
先生に教え導いていただいたことを感謝し
先生のご冥福をお祈り申し上げます。
合掌

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by tiaokumura | 2008-05-02 19:43 | 追悼 | Comments(0)


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