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「ご当地ソング」覚書(5)

「ご当地ソング覚書」シリ-ズ5回目。今回は先日選んだ「ベスト12」の5~8番目(時代順)の4曲について書きます。
それぞれは、歌、発表年(原則リリース年)、作詞、作曲、歌手、歌い出し、コメント(思い出・思い入れ)の順です。
なお、記憶違いが多いかもしれません。その節は悪しからずご了承ください。

ラブユー東京 昭和41(1966)年
上原尚 曲中川博之 歌黒沢明とロス・プリモス
七色の虹が消えてしまったの シャボン玉のようなあたしの涙
東京教育大時代、「学生文化会」というサークルに入っていた。先日の読売新聞「セカンドライフ」にも出てきますが、仲間と共に「理想の教育」の実現を目指し、夏と春に「スクール」を開設。仲間には学年は同じでも浪人経験者もいて、そういう人には呼び捨てや「~君」づけはしにくくって(20歳前後の1~2歳差って大きい)、誰が言い始めたのかわからないが「~氏」とか「~さん」と呼んでいた。都立日比谷高校(あの当時「東大」進学全国一)出身の喜多村氏(倫理専攻)が確かこの曲好きだった。僕には歌と喜多村氏のギャップが不思議だった。
池袋に「しゃぼん」(こちらはかな書き)って喫茶店があって、ウエィトレスに「ロングヘア」「セミロング」と僕たちが呼んでいた女性がいた。そんなこともあってか、「シャボン玉」が出てくるこの歌、仲間内で人気があったのかもしれない。
ムード歌謡とか男性コーラスグループ(ボーカルは女の気持ちになって歌うことが多かった。今にして思うといい年したおっさんが女心を歌うのだから奇妙奇天烈かも^^)に人気があったころのヒット曲。そして、あの頃は、これもよくあることだったのだが、レコード(CDじゃない^^)が出てすぐはヒットせず、何年か経ってから突如ブレーク(ブレークなんて言い方、当時はまだなかった)する。この歌もリリースしてから2年くらい経ってヒットチャート1位になった。下積み生活長かったんでしょうね、このグループも。今歌詞を見てもなんか摩訶不思議な内容。

山谷ブルース 昭和43(1968)年
詞・曲・歌岡林信康
今日の仕事はつらかった あとは焼酎をあおるだけ
岡林信康は「フォークの神様」。ボブ・ディランに擬せられたこともある。一方で、あの頃は熱烈な時代だったんでしょうね、吉田拓郎高石ともやも岡林もコンサートでつるし上げに遭っている。聴衆とミュージシャンが対等な関係。あるいはフォークシンガーが「商業主義に走る」ってことが許されない時代。ボブ・ディランだって彼の国で「ロックに転向しやがって」とか「金儲けに走った」とか批判されたことがある。みんな馬鹿みたいに熱かったんでしょうね。歌手たちも「神格化」されることを潔しとしなかった。今、大学と産業界が密接に結びつくのが当たり前な時代だけど、あの頃は「産学協同」だってトンデモナイって時代。
東の山谷、西の釜ヶ崎。横浜の日の出町もそうだったか、ドヤ街、日雇い労務者の生きる場。小説家の立松和平も一時ここで働いていた。今はイメージが悪いってことで「山谷」も「釜ヶ崎」も地名として残っていない(たぶん)。
何年か前に焼酎ブームが起きたとき、この歌を思い出した。「焼酎」は僕にとっては「労務者の聖なる酒」。今でも「焼酎」はなかなか飲めない、飲む資格が自分にはないという罪悪感がある。若い女性が「チューハイ」をあっけらかんと飲む光景を目にした時、自分はすっかり時代遅れになってるんだなぁと思った。
岡林は美空ひばりともコラボ。今は彼、どうしてるんだろう。音楽活動続けてるんだろうか。岡林と並んで「カリスマ」だった高田渡は先年亡くなられた。
この歌の最後は
だけど俺たちゃ泣かないぜ/働く俺たちの世の中が/きっときっとくるさそのうちに/その日にゃ泣こうぜうれし泣き

新宿の女 昭和44(1969)年
石坂まさを 曲みずの稔・石坂まさを 歌藤圭子
私が男になれたなら 私は女を捨てないわ
戦争が終わって6年、岩手県一関市に一人の女児が生れた。名は阿部純子。少女は薄幸そのもののような生い立ち、極貧の生活。浪曲師の父、曲師の母。雪に埋もれた温泉の木賃宿で子守唄代わりに父の浪曲、母の三味線を聴く。北海道の山村漁村を門付に回る母に伴われた純子は、幼い両手で欠けた飯茶碗を頭の高さに持ち上げわずかばかりの恵み銭をいただく。東北・北海道各地をその日暮らしの旅興行、白米はごく希にしか膳に上らない。そんな「伝説」が似合う少女・阿部純子が「藤圭子」となって『新宿の女』で衝撃的なデビューを果たしたのは18歳になって間もなくの夏。
いやすごかった。これ以上暗くなるのは無理というくらい暗く無表情に歌う。ドスの効いた歌声は一度聴いた者に忘れられない印象を与えた。デビュー曲は大ヒット、『女のブルース』『圭子の夢は夜開く』『命預けます』とヒットが続く。だが、時代が「暗さ」を求めなくなったのでしょうね、本人もいろいろありましたが、やがて、勢いを失くしていく。
藤圭子、好きでした。五木寛之だったか「演歌」を「怨歌」と言った。「怨みつらみ」のこもった藤圭子の「怨歌」。他にも前後して北原ミレイ(『石狩挽歌』など)、竹越ひろ子(『東京流れ者』など)、緑川アコ(『夢は夜開く』『カスバの女』など)なんて歌手もいて、好きだった。彼女らの共通点は、豊かな声量。それぞれに民謡・ブルース・ジャズ・ソウルなどベースになった音楽は異なるのだろうけど、彼女らはみな「魂」を込めた歌だった。今は口先だけの歌・テクニックだけの歌・背後に歌手の人生が感じられない歌が多い。
「藤圭子伝説」は虚実皮膜。意外と笑うのが好きな少女だったのに営業サイドの希望で「暗い少女」を演じさせられていただけなのかもしれない。ま、今となってはそういうことはどうでもいいこと。山口百恵が「時代と寝た女」と言われたけど、藤圭子も3年くらいの短い期間だったけど「時代と寝た女」であったのは間違いない。
今では藤圭子は「宇多田ヒカル」の母として有名みたいだけど、僕にとってはやはり藤圭子は藤圭子。いつかカラオケボックスの照明を全部落として思いっきり藤圭子メドレーをやってみたい。きっと、そんなボクには誰もよりつかないだろう(激爆)。「一人カラオケ」。

池袋の夜  昭和44(1969)年
吉川静夫 曲渡久地政信 歌青江三奈
あなたに逢えぬ悲しさに 涙もかれてしまうほど
池袋で働いていた頃、自分勝手に東京盛り場流転を想像してた。ある女性、銀座の高級クラブから、赤坂・六本木→渋谷→新宿→池袋→上野・鶯谷→錦糸町・新小岩→船橋→銚子→水戸・・・と堕ちていく。関係土地の方々、ごめんなさいね、ボクの勝手な妄想スゴロク^^です。
池袋から「出世」していく女性(引き抜かれて新宿や、ごく希に銀座に)もいたでしょうが、どちらかと言うと山手線を時計回りで「移動」していく女性のほうが多かったような気がする。金・男・酒・薬・ギャンブル・家族など原因はいろいろだったのだろうけど、池袋は渋谷・新宿よりはかなり下に見られ(今はだいぶ変わってきたみたい)、転落人生の中間地点か「上がり」。あの頃の女性たち、その後どんな人生を送ってるのだろうか。亡くなられた方もあるでしょうが、東京の近郊都市で小料理屋さんをやってたり、田舎に戻って今頃は孫の世話してたり、あるいは意外と貯金たくさんしててそれを元手に女実業家になってたり・・・。どうであれ「幸せ」だといいですね。
池袋の夜』、あまり歌に歌われることのない池袋の、数少ない(唯一?)「ご当地ソング・ヒット曲」。青江三奈は藤圭子よりデビューは先。『恍惚のブルース』なんて放送禁止直前みたいな歌^^(ジェーン・バーキンの『ジュ・テーム・ノン・プリュ』よりすごかったかも^^)もヒット。ジャズシンガー上がりなんでしょうか、今にして思うとずいぶん上手な歌手でした(今は故人)。『伊勢佐木町ブルース』ではスキャットも入ってた。
歌に出てくる「美久仁小路」「人生横町」、1回くらいは言ってるかもしれませんが、印象は残ってません。歌のタイトルが『池袋の夜』で歌詞中では「夜の池袋」って逆なの、ちとおもしろい。
by tiaokumura | 2008-02-13 23:01 | 音楽 | Comments(0)


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