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山根青鬼さん「私のまんが道」

山根青鬼さん「私のまんが道」_f0030155_1530673.jpg5月6日(火・祝日)、4連休の最終日なれど富山国際学院に出勤。ところで5月6日ってなんで休みなん? 代休のそのまた代休なんでしょうか。昔だったら(そういう言い方をするのは、ジジイになった証拠か^^)平日扱いだったのでは。
9時半頃家を車で出る。博文堂さんに支払い&注文。博文堂さん、先日移転されて、元の場所に戻った感じ。10時前、学院に駐車。同僚の粕谷謙治さんも出勤中。
メールチェック・報告書作りなど。11時半過ぎ、学院近くの「麒麟飯店」で粕谷さんと昼食。ラーメン+ギョーザ+ビール(中ビン)。
1時過ぎ、徒歩で学院を出る(そりゃそうですよね、飲酒運転になっちゃいますから^^)。富山駅北口から地下通路を通り南口へ。しんどかったので南口でタクシーに乗る。「古志の国文学館」までワンメーターでしょうか、710円だった。富山の初乗りっってそうなんでしょうか。タクシーなんてめったに乗らないので、GW中のちょーゼータクでした。

企画展「まんが家 藤子・F・不二雄のSF(すこし・ふしぎ)」記念講演
山根青鬼氏「私のまんが道」

山根青鬼(やまね・あおおに) 昭和10(1935)年8月16日、東京生まれ。本名は山根忠。双子の弟は漫画家の山根赤鬼。昭和20年、母親の郷里の下新川郡泊町に疎開。昭和24年、『北日本少年新聞』に四コママンガ『北日坊や』を兄弟合作で連載し、14歳でデビュー。
翌年、漫画『のらくろ』の作者・田河水泡から、「青鬼」のペンネームをもらい、門下生となる。ギャグ漫画・ひとこま漫画・四コマ漫画・社会風刺物・絵本など、幅広いジャンルを手がける。主な作品に、『めだかちゃん』、『おやじバンザイ』、『名たんていカゲマン』など。平成元年、同門の永田竹丸、弟の山根赤鬼とともに、田河水泡から『のらくろ』の執筆権を継承した。
藤子・F・不二雄は、山根青鬼・赤鬼兄弟の登場が「ぼくらをまんがの世界にかりたてる大きなエネルギー源となった」と語っている。(以上、展示ポスターより)
この展示ポスター、「リーフレットがないか」と係員に尋ねたら「ない」とのこと。こういうところが不親切と言うか宣伝下手なんでしょうね。でも、講演会場に入って座ってたら、係の女性がポスター1部、席まで持って来てくださったところは、富山県人らしいかも^^。瀬名秀明講演のポスターも展示してあったが、当日、リーフレット化してあるといいのですが。

2時から講演。以下、メモから。文責・奥村。
①生まれたのは東京赤坂。双子で親は「忠義」「孝行」としたかったのだが、役所の係がそういう名はかわいそうだということで「忠」「孝」に変えさせられた。
②昭和11年、「226事件」など世情物騒で大阪に引っ越し。さらに空襲が多く母方の実家のある泊へ引っ越す。
③4.5歳ころ、石墨で『のらくろ』や『冒険ダン吉』をかいていた。
④小学校入学頃、兄弟で「僕たちは漫画家になろう」と話した。
⑤終戦の放送を聞いて戦争が終わったのがうれしくて「万歳!」と叫んだら、大人にこっぴどく叱られた。
⑥学校新聞にガリ版刷りの漫画をかいた。それが地元の北日本新聞記者の目に留まり、「双子の天才漫画家」と報じられる。
⑦「北日本少年新聞」(週刊)に『北日(ほくにち)坊や』を連載。それが「家の光」の編集者の目に留まり、田河水泡先生が泊に訪ねてくることにつながった。水泡先生の面会第1声は「小っちゃいね」。先生に「何がかける?」と聞かれて生意気にも「何でもかける」と答えたら、一喝された。
⑧両親も職を捨て一緒に上京。父が三大新聞・五大出版社に売り込みに行くも門前払い。荻窪の水泡先生に1週間に1回、漫画を持参。だが、「いい」とも「悪い」とも言われない。「石の上にも3年」。3年経って、先生はこれまでの自分たちの作品(実は先生は全部溜めていたのである)を出して、「おもしろい」「よくやった」「この3年間、2人の忍耐力を試していたのだ」「全部、売れるよ」と、遂におっしゃった。
⑨田河水泡先生、泊中学時代の担任(英語)、両親のおかげである、今日の自分があるのは。
⑩貸本時代、1冊1万5千円。「漫画少年」の連載カット1ページを書いていた頃、手塚さんは『火の鳥』を控室でかいていた。
⑪昭和31年、「少女クラブ」(講談社)の依頼が来て、「一人前の漫画家」になれたと思った。自分は『めだかちゃん』、弟は『よたろうくん』。多いときは1人、月に9~10本の連載。
⑫自分も「トキワ荘」に入りたかった。しかしマネージャーの父が「トキワ荘の色になっちゃうぞ」と反対。
⑬漫画家は個性のある絵が大事。真似はダメ。いろんなところへ行って、いろんな人の話を聞く、いろんな人と付き合う。映画・TV・本などからも知識を豊富に吸収。
⑭スランプは必ずある。17、8歳のころはオートバイでストレスを解消していた。スランプは5年ごとに襲ってくる。初心に帰ることで克服している。
⑮吉林省の大学で年に2回、漫画を教えている。学生は500人ぐらい。中国人は、絵は実にうまいが、ストーリーがまずい。批判精神が薄いせいかもしれない。
⑯デビューしてから65年目になる。
⑰『のらくろ』の継承権はもらったが、商品化はダメ。のらくろのひげは、自分は5本、赤鬼は6本、永田は7本。

この後、会場からの質問。漫画家志望なんでしょうか、学生服の中学生?からも「説明になりすぎない設定をどうすればいいか」という鋭い質問有り。青鬼先生「ストーリーを作っていくうちに、キャラクターが出てくる」。
これで終わりかと思ったら、ここからがすごかった。係員からの「先生の歩んできたまんが道を1枚の絵で」というリクエストに応えて、作画。ホワイトボードに貼った紙に筆で3枚。さらにその後会場からの希望者が白紙に自分の名前(姓または名)を大きく書き、それを使っての文字絵。サービス精神旺盛な青鬼先生なんでしょうね。
アップした写真、『北日坊や』。希望者にプレゼントってことで僕も名乗り出たのですが、計7人によるジャンケンで負けちゃいました(泣)。家宝になっただろうに^^。
by tiaokumura | 2014-05-06 15:30 | 富山 | Comments(0)


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