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「越中富山十万石ブラ歩き」富山の老舗巡り

「越中富山十万石ブラ歩き」富山の老舗巡り_f0030155_14292636.jpg12月11日(水)のBS朝日「城下町へ行こう」で富山が取り上げられていました。ご覧になりましたか。案内人はピエール瀧。『あまちゃん』で鈴鹿ひろ美の行きつけの上野の寿司屋「無頼鮨」の店主「梅頭」をやっていた俳優です。クドカンの『あまちゃん』は濃いキャラ満載の番組でしたが(激爆)、彼もその一人。ふるさと北三陸に戻った弟子の種市の許をバイク(ハーレーダビッドソン?)で訪れるシーンなんて、名場面の一つになるでしょうね。←『あまちゃん』を観とらんだ人にはなんのことかさっぱりわからんでしょうけんど^^。BS朝日「城下町へ行こう」では薬都富山、前田藩富山、幻の天守閣、売薬、北前船、薩摩藩との昆布の縁などが出ていました。越中富山の売薬が明治維新の影の立役者だったなんて、じぇじぇじぇです。

さて12月14日(土)、「ブラ富山」に参加。僕は同イベント、これで、レクチャー1回・町歩き3回と、皆勤です、たぶん。今回はあいにくのお天気で朝から雪。参加者は僕を入れて9人。いつもは30人以上はいるのですが、この日はキャンセル多数だったんでしょうね。
家から市電2本を利用して、9時過ぎに集合場所の八人町公民館に着く。この日は悪天候も予想してなんでしょうね、主催者側が「戦前の富山」の映像を2本ご用意。2本ともめったに見られない貴重な映像でした。
1本目は中田勇吉制作の16mmフィルム。高校生時代、富山総曲輪(そうがわ)通りに清明堂・瀬川、中央通りに中田の3軒の本屋がありました。中田書店は茶の木屋と云う薬種問屋から出きてきたお店。明治時代の中田清兵衛は実業家で、銀行・水力発電所にも関わった。富山の基礎を築いた人物の一人でしょうね。中田家の家系からは戦後の富山県知事も出ている。勇吉は清兵衛の息子にあたるのでしょうか。フィルムは昭和12年1月2日、「雪のない寅年」で始まる。西暦では1937年に当たります。初売出し風景、祭礼の後は、東四十物(ひがしあいもの)町内会の活動。当時町内会館を造ろうということで、その地鎮祭・落成式が映し出される。戦闘帽姿も見られ、戦時色が濃くなりつつある時代なんでしょうね。富山の大雪の年と云えば僕には「三八豪雪」「五六豪雪」ですが(どちらも富山で経験)、戦前にも豪雪あったんですね、フィルムには「勤労奉仕」と題して町内総出の大雪除雪も出てきました。除雪はしんどい作業ですが、このシーンの登場人物たちには深刻さは見られず、大勢が楽しみながら除雪している感じです。除雪ってよりは「楽雪」かも^^。フィルムは食糧増産(とうもろこし・かぼちゃ・ジャガイモなど)の後、富山の老舗着物店・蔵島屋当主の葬式風景。町の有力者だったんでしょうね、ずいぶん盛大な葬式です。今は見かけませんが、棺を運ぶ人は網笠をかぶっています。「防空演習」もかなりの時間がフィルムに記録されています。集合→待機→演習開始→焼夷弾落下→ガス弾演習→演習終了。
もう1本は当時の写真屋「精美堂(しょうびどう)」の撮影による8mmフィルム。昭和17年2月18日の護国神社から始まる。西暦1942年。舞鶴から岩瀬港に入港した軍艦を記念した海軍省関連のセレモニー。さらには陸軍記念日の護国神社。市電、今とはルートが違いますが写っていました。電停「ゐくおもし」(「下奥井」です)前の富山化学。当時は富岩鉄道か。富山駅停車場からの出征風景も。悲惨なのはシベリア帰りの富山連隊でしょうか、行進中の白木の箱の葬列。かの地での戦没者あまた。箱の中には紙切れくらいしか入ってないのではないでしょうか。このフィルムには戦後の競輪場や広貫堂も出てきますが、昭和15~17年の富山が主だそうです。ずいぶん昔ですが、僕の生まれる数年前と考えれば、見ていても何かしら「想い」が交差します。今の僕は下品な顔ですが(恥)、あの当時の富山市民たちは実に豊かないい表情です。「逝きし世の面影」でしょうか。

フィルム2本鑑賞のあと11時過ぎ、メンバーからの希望もあって町歩きをすることに。僕はこの日、今シーズン初のタイツ着用(照)で準備万端でした。
今回「富山の老舗巡り」のコースは
ノーベル賞・田中耕一さん→女傳蒲鉾→旧八人町小学校→中彦かまぼこ→荒町交差点→蝦町(密田家)・藤ノ湯→旧古寺町→富山四十物町郵便局→中教院→中田清兵衛旧宅→蔵島屋→竹林堂本舗→中町→石谷もちや→三番町と島川あめ店
でした。「島川あめ店」はBS朝日の番組でも出ていました。
歩いている途中、竹久夢二を話題にされている方がいて(夢二の縁筋が経営していたカフェがこのあたりにあった、とか)、お相手との話を聞くともなしに耳を傾けていると、「かぐらがわさんと云う人が・・・」と聞こえた。「かぐらがわさん」が熱心に夢二の跡を辿っているという話だった。ビックリ。「kaguragawa」さんは当ブログつながりの方。こちらのブログ主宰者です。ご本人には何度かお会いもしている。世の中、いろんなつながりが発生するもんです。
今回の町歩き、最後、富山寺で解散。このお寺は元は「冨山寺」名で「ふせんじ」が本来の呼び名とか。今回も丁寧なガイドをしていただいた方にお礼を述べて場を離れる。ガイドの方、これで3回目になるがまだお名前を聞いていない(恥)。春になったらこの「ブラ富山」再開だそうで、人生の楽しみがまだまだあります。

西町で市電に乗り富山駅前で下車。駅前のCiCビルの5F「春々堂」で昼食。「豆乳中華薬膳粥」、けっこうヴォリュームがあるのですが、完食できた。
by tiaokumura | 2013-12-15 14:29 | 富山 | Comments(6)
Commented by 平名 at 2013-12-15 18:47 x
 何となく「しめましておめでとう御座います」って言葉はないすか? 癌の末期にしては お元気そうで何よりです、、 最近はとある分野におけるもんだいでしょうが、 癌では研究費はあまり出なくなって大変な業界へ、、 ってとこも有るようなないような、、 でも逆に言えば ってことも有るから ともかくは体を大切になさってください。
Commented by kaguragawa at 2013-12-21 00:17
je,je,je・・・。
どなたか、カフェ「オララ」のあった場所をご存知の方がおられるのでしょうか。だいたいの場所は推測できていて、なんどかこの辺りを歩き、近所の方にもお聞きしましたが、具体的な場所は不明のままです。
Commented by tiaokumura at 2013-12-21 14:48
平名氏、お元気そうで、何度もコメントありがとうございます。今月はとんとコメントが入らん月で貴君のコメント、まことにまことに貴重です。感謝感激雪こんこん(←君の書き方が伝染ったかも^^)です。
癌って研究費出なくなってるんですか。マスメディアの癌報道も減っている感じもします。近藤誠だけが元気なんかも^^。
Commented by tiaokumura at 2013-12-21 14:52
kaguragawaさま、僕もあなたのお名前を耳にしてビックリでした。彼、その前から「オララ」のことを話題にされ、湯涌温泉のことや社会運動との関わや、愛人のことなども出てきてて、夢二のことに詳しい方なんだなぁと聞いていました。彼のお名前は不明で、お顔も既に記憶定かじゃないのですが、」ひょっとしたらまたお会いできるかもしれません。その機会にはもう少し情報を聞いてみます。
Commented by kaguragawa at 2014-07-05 23:03
きょう、思いがけぬところで「オララ」に出会いました!。翁久允の『高志人』のしかも、創刊号(昭和11年9月)!!。拙ブログ、きょうの記事。
Commented by tiaokumura at 2014-07-10 08:14
kaguragawaさま、オララってずいぶん人気のあるカフェだったようですね。翁氏、子供のころ、その「高志人」とともに記憶があります。ひげの方だったような。「高志」って「越」であり「高い志」だったんでしょうか。


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