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野田尚史・編『日本語教育のためのコミュニケーション研究』(くろしお出版)

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野田尚史(のだ・ひさし1956-。国立国語研究所教授)編
日本語教育のためのコミュニケーション研究
2012年5月26日第1刷
くろしお出版
2400円+税

本書の構成。巻頭に野田尚史「日本語教育に必要なコミュニケーション研究」、第1部「母語話者の日本語コミュニケーション」には宇佐美まゆみ「母語話者には意識できない日本語会話のコミュニケーション」など3本、第2部「非母語話者の日本語コミュニケーション」には迫田久美子「非母語話者の日本語コミュニケーションの工夫」など3本、第3部「日本語のコミュニケーション教育」には嶋田和子「日本語教師に求められるコミュニケーション教育能力」など3本。執筆者各自の「あとがき」、「索引」、「著者紹介」を付す。

野田尚史「日本語教育に必要なコミュニケーション研究」(pp1-20)より引用を交えながら紹介。
これまでの日本語教科書は「コミュニケーション能力の育成を目的として掲げてい」ても「実際にはコミュニケーション能力より日本語の構造や体系を教え」(p1)るものだった。それは「言語の構造や体系を明らかにすることを目的とした伝統的な言語学的な研究の論理をそのまま日本語教育に持ち込んだから」(p2)である。これからの日本語教育には「日本語を使う状況から出発し、その状況でどんな能力が必要かを考えて教育内容を決めなければならない」(p4)。コミュニケーションの教育に必要な研究には「文法中心主義からの脱却」「純粋な日本語能力以外の重視」(p9)が求められる。
嶋田和子「日本語教師に求められるコミュニケーション教育能力」(pp187-206)より引用を交えながら紹介。
「文型至上主義」「教科書至上主義」が日本語教師の思考を停止させている(p189)。また、「教師主導型授業」(p192)もコミュニケーション教育には弊害である。教師には、学習者の「側に付き添う案内人」として「教師側の話を最小限に抑え、学習者が会話に参加する機会を最大限に増やす」(p193)役割が求められる。また「教室も1つのコミュニティ」(p194)であり、教師と学習者が「共に学ぶ場」(p195)として捉えなければならない。
本書の主張を一言で言うなら、「日本語教育をコミュニケーション重視のものにするには、その目的に合わせた研究が必要だ!」(帯より)。私のように「研究」とは無縁な者(嶋田が言うようにそれではダメなのだが。僕は嶋田の言う「勘・経験・記憶に頼る教師」だろうなぁ)にも示唆されることが多い本書である。野田尚史・編『コミュニケーションのための日本語教育文法』(2005年。くろしお出版)との併読をお勧めする。

3つ前の記事でも書いたが野田尚史『はじめての人の日本語文法』(1991年3月第1刷。くろしお出版)は僕が日本語教師になったきっかけの本である。先生のご著書を読み始めたのは20年以上前だが、僕が憧れの野田先生に初めてお会いしたのは数年前の日本語教育振興協会(日振協)の講師としての先生である。その後先生のプロジェクトに短期間であるが参加させていただいた。先日終了した朝日新聞「ニッポン人・脈・記 日本語の海へ」の第15回に野田先生がご登場です。先生はこの春、大阪府立大学から国立国語研究所へご転出。
嶋田和子先生との初対面は、数年前の日本語教育学会主催の日本語教師研修だっただろうか。いつお会いしても元気な方で、僕のようなネクラ教師にはまぶしい存在。6月8日に東京教育大学時代のサークル仲間と新大塚で食事会をした。郡場典子さん(英文科)と話してて、嶋田先生と郡場さんが都立西高校の同級生&友人だということがわかってビックリ。世の中、狭いもんです(It’s a small world!)。嶋田先生は、最近話題の教科書『できる日本語』作成の中心メンバー。近著に監修『「できる日本語」準拠 漢字たまご』(2012年6月25日初版第1刷。凡人社)がある。嶋田先生は今春、イーストウエスト日本語学校を退職され、アクラス日本語教育研究所を立ち上げられた。
by tiaokumura | 2012-06-24 15:35 | 日本語教育 | Comments(0)


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