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本当にあった話(真实的故事)-tubomimさんのブログ記事より転載-

tubomimさんのブログ「在日中国人女性の随筆」は私がほぼ毎日ご訪問させていただいているブログです。tubomimさんとはブログ上でのお付き合いをさせていただいております。
あれはもう3年ほど前になるでしょうか、NHKTVで愛新覚羅溥傑(1907-94)のドキュメンタリー番組が放映された。ご存じない方もあるかもしれませんが溥傑は「ラストエンペラー」溥儀の実弟で、我々庶民からは「数奇な運命を辿った」としか言いようのない方です。溥傑は、当時「政略結婚」と言われた嵯峨侯爵家令嬢・と再婚(溥傑の初婚は別離)。溥傑と浩は、運命に弄ばれながらも深い愛と信頼に満ちた幸せな夫婦生活を送った。2人の間の長女が慧生(1938-57)で、彼女は学習院女子高等科に在学中に周恩来首相にあてて「中国で獄中生活を送る父に、日本にいる私の母・私・妹はぜひ会いたいです」という趣旨の手紙を送り、それを読み感動した周恩来は父娘の文通を許可する。慧生は、これまた「数奇な運命を辿った」としか言いようがないのでしょうが、私が小学5年生の時に大久保武道と「天城山心中」(高木彬光『成吉思汗の秘密』にも出てくる)。浩と溥傑の二人はやがて中国で再会でき(「天城山心中」から4年後)、夫婦は長く日中友好の架け橋となった。浩は1987年に北京で逝去。
NHKTVのドキュメンタリー番組を見て、概ね上記のことに触れた記事を当ブログに掲載した。その記事に、おそらく検索エンジンを使ってなのでしょう、tubomimさんがアクセスしてこられてコメントをいただき、それからtubomimさんと私のブログ上でのお付き合いが始まったという次第です。
前置きが長くなりましたが、そんなtubomimさんの2009年4月7日の記事を以下に転載します。なお、転載についてはtubomimさんのご許可を得ています。
転載にあたりフォントなどが変わっていることをご了承ください。オリジナル記事こちらです。
文章中の「小象」はtubomimさんのご子息です。


本当にあった話(真实的故事)
「一博一品(2008)」30名の作者の一人として当時72歳の慢慢来は下記の文章を投稿した。日本語は当時13歳の小象が翻訳した。中国語はここ⇒《真实的故事》をご参照。
作为《一博一品(2008)》30名作者中的一员,当时72岁的慢慢来投了下面的这篇文章。日文由当时13岁的小象进行翻译,中文请参照这里⇒《真实的故事》。


実は慢慢来はこの文章を一度投稿したものの削除した。なぜかというと、小さい時に両親から聞いたこの話が「本当にあった話」というタイトルを裏切らないよう、山西省の太原市、交城県の親戚や知人を通じて調べていた。調べた結果、この話を知っている人は今でも多くおり、「そして日本人としての習慣はずっと保ち続けていて、常に山村のオンドルの上で正座をして人と話している。」という証言まで見つけた。そこで慢慢来は再投稿した。
其实慢慢来将这篇文章投稿后,自己又删掉了。为什么呢?为了让这个小时候听父母讲的故事,不辜负《真实的故事》这个题目,慢慢来通过山西省太原市、交城县的亲戚及朋友去进行调查了。调查的结果,至今还有不少人知道这件事,还有人证实“这位老太太一直保持着日本人的习惯,总是跪在炕头上与别人聊天。”于是,慢慢来再次投稿。

今年のはじめに「一博一品(2008)」は出版した。お祝いすると同時に慢慢来はこの話について詳しい情報を知っている人がいないかとネット上続けて募集している。なぜかと聞いたら「書いた以上、自分のできるかぎり最善を尽くし『本当にあった話』を記録したい」とパソコンに向かった慢慢来が見せてくれた父親の背中。
今年年初《一博一品(2008)」》出版了,在祝贺的同时,慢慢来又在网络上继续寻找有没有更了解这件事的人了。这是为什么呢 ? “我既然写了,就尽自己的努力记述一个《真实的故事》” 我静静地望着趴在电脑前慢慢来让我看到的这位父亲的背影。

   山西に咲いた花-梅子の恋物語

「交城山、交城川、交城県を潤わさず、分水県を潤す」。山西省交城県はこの一つの有名な民謡によって全国に名が知られている。だが、そこは一つの小さくて貧しい県で全体の80パーセントもの面積が山地である。ここには交通といえるものがない。曲がりくねった山道にはロバとリヤカーしか通れない。しかし、この山のある集落の中に一人のその地でとても尊敬されている日本人のおばあさんがいる。あの「抗日」の時代にあっても誰も彼女を責めることはなかった。このおばあさん、もしまだ生きているならば、およそ百歳になるだろう。私は彼女の本名を知らないので、ここでは「梅子夫人」と呼ぼう。

話によると、あのころ梅子は日本の貴族のお嬢様だった。彼女が中国の留学生の王さんと相思相愛になり、結婚した後、夫と共に中国にやってきた。まずは太原に、その後、この、まるで世の中から隔絶されたような王さんの実家に流れ着いた。
 
最もロマンチックなのはやはり彼(彼女)らが日本にいたときの恋物語だろう。当時日本にいた中国の留学生たちは、彼らの相思相愛は絶対に不可能で、王さんには分不相応だと皆思った。しかし後になって、これは覆された。そう、二人の恋は真実になってしまったのだ。

日本にいる間、王さんはとても貧しく、刺激の無い生活を送っていた。暇なときにはよく退屈しのぎに窓の外を見た。これが彼の一日のうちで最も自由な時間であった。しばらくして、決まった時間に必ず、ある日本人のお嬢様が自転車で窓の前を通り抜けていくのを彼は発見した。その内、時間になると一目見ようと体が勝手に動くようになった。見れば見るほどのめりこんでいく。このお嬢様は何を取ってもいいのである。

だが困ったことに彼女は一回も彼に興味を示したことが無い。王さんは一つの策略を練り、梅子が下校し帰宅する最中を狙って、一台のボロ自転車を借りて後から追いかけた。そして、彼の前輪が梅子の後輪に追いついた瞬間、いきなりハンドルを回した。梅子は道路の上にひどく転んでしまい、王さんまでもがビックリした。梅子がここまでひどく転ぶとは彼も思っていなかった。彼は梅子を抱えると一気に病院へと走っていった。治療と入院手続きの最中に、彼は電話で梅子の家族にこのことを知らせた。だが、梅子の両親が病院に駆けつけるより先に、彼は病院を離れていた。

三日後、王さんは花束を持って梅子の見舞いに来た。偶然梅子の母も病室にいた。梅子の母は彼の行為に再三感謝を示した。五日目にまた来ると、彼女の母の態度は急に180度変わった。危うく彼を病室からつまみ出すところだった。このとき、どうやら梅子の両親は何かに気が付いたらしく、再度梅子が彼と会うことを許さなかった。また、病院の看護士にもそう伝えた。

これには梅子もちんぷんかんぷんだった。だが、梅子は王さんが相変わらず彼女に会いに来ていて、窓の外であるときは手を振って、あるときは軽く頭を下げて、何か梅子のしぐさを見ると満足げに帰っていくのを見つけた。王さんが来る時間も決まっていて、時間になっても来ないと梅子は気を揉んだ。このあと、梅子の家は二度と静まらなかった。そして、その騒ぎは終わりを知らなかった。梅子の両親はいろいろな飴と鞭を使った。だが、それも実らず最終的には、無情にも「家族の縁を切る」という決着になった。梅子は後ろも振り向かず、後へも引かずに夫の王さんと中国にやってきた。

中国に帰ってくると、王さんは太原で給料のいい仕事を見つけた。二人の生活はとても満ち溢れた幸せなものであり、また家には相次いで二人のかわいい娘が生まれた。だが、神様に願いは届かなかったようだ。運命の悪魔は無情にも襲い掛かってきた。王さんは突然の病で帰らぬ人となり、あっという間にこの幸せな一家は苦境に陥った。かわいそうな梅子は藁にもすがる思いだった。そこで、梅子は頼れる知人も無く、土地勘も無い太原を去ることにした。そして、最終的には王さんの故郷でいまだ会ったことも無い王さんの親戚を頼ることに決めた。

こうして、夫を亡くした母子は交城県のこのとても貧しい山村にやってきた。村人は、好奇心と同情の気持ちを持って彼女たち3人を受け入れた。梅子が初めてやって来たときは、再度まったく見知らぬ世界に入ったようだった。彼女が知っていた僅かな中国語はここではまるで通じなかった。だが、梅子はここを唯一の家だと認めた。梅子のあきらめない性格と優しい心が彼女の人生に再度奇跡を起こした。彼女の境遇は孤独で誰にも助けてもらえない状態から仲良く互いに助け合うまでに至り、最終的には村人の心からの親しみと尊敬を受けるまでに至ったのである。彼女は交城の山村の方言も身に付け、誰も彼女を外国人だとは見抜けない。だが、日本人としての習慣はずっと保ち続けていて、常に山村のオンドルの上で正座をして人と話している。聞いた話によると、二人のきれいな娘さんは既に山から出て新たな世界を切り開いたという。だが、彼女たちは永遠に、尊敬する母である梅子を忘れることは無いだろう。

この物語は私の父親がまだ在世のころ何度となく話してくれた。父親はおろか母親までもが王さんと知り合いである。なぜなら父親は1920年(民国9年)に北京師範大学理工化学学部を卒業後、公費留学生として日本東京帝国大学に留学に行った際、日本にいた王さんと同年代で交城県出身の同郷であるからだ。
2006年 06月 12日

by tiaokumura | 2009-04-10 20:18 | このブログのこと | Comments(2)
Commented by tubomim at 2009-04-11 10:23
ご紹介・転載ありがとうございます!このように「梅子さん」の話は祖父、父、私そして小象と代代だけではなく私と先生とのネット上の交流により広く多くの人々に伝えていくでしょう。山西省に流れていた種は世界中できれいな花を咲くことを願っております。
「溥傑と嵯峨浩」の感動的な物語は中国でも広く伝われ、私が中学校頃かな初めて聞きました、「嵯峨」という漢字の中国語の発音もそのときに辞書を調べて覚えたのです。
Commented by tiaokumura at 2009-04-13 20:05
tubomimさま、こちらこそ転載させていただきありがとうございました!このブログはマイナーなブログなので^^あまり広がりは期待できませんが、いつの日かこのブログで「梅子さん」の話を読んでくれる日本人が現れることを願っています。
今日、学院で、中国人福建省出身の09年4月新入生が何人かやって来て、どうやら「空気入れ」を借りたいみたいでした。「空気入れ」「自転車に空気を入れたい」という日本語を臨時に教えました。彼ら・彼女ら、まだ『みんなの日本語』第4課あたりなんですけどね^^。でも、彼ら・彼女ら、自分たちの日本語が通じた喜びで喜色満面。とっても明るい表情が僕には嬉しかった。彼ら・彼女らの明るさがいつまでも続いてほしいものです。


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