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柴田力弥師と

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第2回 江戸の座敷芸を観る会 夜桜や~」続き。
12:20頃、旧・老舗料亭の玄関を入る。階段を上り廊下伝いに会場の大広間に。新聞記事にあったように赤い漆喰・欅の一本柱・屏風・着物展示。30畳ほどの部屋の前方に座る。どうも足が痛い(恥)。始まる頃には100人ほどになったでしょうか。女性がやや多目。女性の中には着物姿も10人以上。男女とも中高年が圧倒的。ごくまれに30代男性・20代女性。芸が芸だけに未成年者はいませんでした(激爆)。

1時前、村田祥一さん(そば・うどん処「村田家」ご主人、65歳)がご挨拶。
村田さんの受験勉強のときの思い出。向かいが料亭の離れか何かで都々逸をBGMに受験勉強したそうな(爆)。高校の古典もおかげでずいぶん成績が良かったそうな(爆)。村田さんのお気に入りの都々逸も何句かご紹介。高杉晋作作と伝えられる
三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい
は、僕も好きな都々逸です。

村田さんのご挨拶のあと、柴田力弥さんが芸者姿でご登場。
お話あれやこれや+お座敷芸。
力弥さんは四谷生まれ。三木のり平がおじだそうです。子役で映画・芝居に出演。花柳章太郎に習ったこともある。越中おわら節との出会いは、昭和30年「一本刀土俵入り」(長谷川伸の名作。劇中に「越中おわら節」が歌われる)上演の下準備として昭和29年に八尾に来た時。柴田師匠はたぶん僕と同じくらいの年齢でしょうね。僕もその頃八尾の親戚に遊びに行ってるのでひょっとしてどこぞですれ違ってるかもしれない。師匠は現在八尾の青根というところにご在住。
師匠は「毒舌家」って括りになるのでしょうね、あの人・この人ぶった斬り(激爆)。ただそこには師匠の論理・美学がきちっとあって、つまり正鵠を射ている。お師匠さんにご迷惑がかかると申し訳ないのでここには明記しませんが^^、落語家のあの人もコケにされてました。「保存会」にも手厳しい批判。師匠が日大三高時代に交遊のあった双子にも鉄槌^^。僕は師匠と同年代のせいか(あるいは師匠もAB型?)、師匠の数々の批判、ほとんど納得のいくものばかりでした。
大島紬のこと、着物は身分制で発達したこと、羽織の効用、飲む・打つ・買うで三遊亭、おわら節の歴史など、目から鱗な話も多数。

お座敷芸の方は都々逸・端唄・博多節など、あるいは踊り。季節柄、
梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳なよなよ風次第
も当然ありました。梅絡みでお蔦・主税の話も。端唄の一つでは幡随院長兵衛の例の湯殿でのセリフ入り。
興に乗ってきた頃からはいわゆるバレ歌・バレ句になるんでしょうね、オン・パレード(激爆)。思わせぶりに始まって最後にストンと落す、あるいはその逆-言語芸術ですよね。でも、文句の意味がわからないかあるいはカマトトぶっているのか、聴衆からあまり反応がない場面もありました。まぁ僕は人の3倍くらいうなづいたり笑い転げたりしていましたけど。いいストレス解消になったかも^^。
最後のテープ伴奏付き踊り「おそうじ」は、狂言「附子」とちょっと似てて、お局さまから見ちゃいけないと言われていた箱の中を見てしまう。その箱の中は・・・たぶんあなたのご想像の通りです(謎爆)。

僕たちが子どもの頃にはまだ「幇間」は死語ではなかった。柳家三亀松師や悠玄亭玉介師もご健在だった。今日のお座敷芸は幇間だけではないのだが、おそらくほとんど絶滅寸前の伝統文化になるんでしょうね。伝統文化を育ててやろうという旦那衆もいないし、伝統文化が「わかる」のは(色街育ちでなければ)僕ら世代が下限でしょうね。柴田師匠の後継者もどうやらいないみたい。芸道修業に耐えられる若者なんていませんもんね。
師匠がおっしゃった中で特に印象に残ったのが「今は『にほリカ人』が多い」「もっと日本に帰りましょう」。

終了後、これまたワガママ言って、お師匠さんの膝枕で写真を撮っていただきました(照)。こんなリクエストしたんはボクだけでした(激爆)。こうして膝枕してもらって三味線弾き語りが聞けたら-男冥利、これに勝るものなし、かも(爆)。

柴田力弥師匠
村田祥一様・村田ゑみ様
本日はありがとうございました!
第3回を楽しみにしております。


昨日の、今日のお座敷芸と僕にとっては2日続きの「」の日でした。
by tiaokumura | 2009-03-29 14:41 | 富山 | Comments(0)


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